第186話 あおい荘


 海岸線を走り続ける車の中で、二人の会話は途切れることがなかった。

 あおい荘の出来事、あの日しおりと交わした会話。これからのあおい荘について。

 旅館で語り合ったあの時のように、二人は笑顔で言葉を紡いでいた。


「それで直希さん。私の実務者研修のことなんですが」


 あおいが少し真面目な顔で言った。


 実務者研修とは、あおいの持つ初任者研修の次にある資格のことで、昔でいうところのヘルパー1級に当たる。これを取得しないと、あおいの最終目標である介護福祉士を受けることが出来ない。


「うん、手続きの方はしておいたよ」


「ありがとうございますです。しばらくの間、あおい荘に迷惑をかけますが」


「気にしないで。それに迷惑だなんて思う必要もないんだ。あおいちゃんがスキルアップすることは、あおい荘にとっても大切なことなんだから」


「でも私、直希さんに色々教えてもらってますけど、初任者研修で学んだこともほとんど忘れてしまってて」


「前にも言ったよね、こういうのは実戦で鍛えられないと身につかないものなんだって。自転車の運転と一緒だよ。ずっと続けていれば、いつの間にか出来るようになってるものだから」


「はいです」


「それに俺は、あおいちゃんが自分の意志で、自分の道を歩もうとしている。それが嬉しいんだ」


「私は……姉様の施設を見学して、自分がどれだけ無力なのかを知りましたです。あおい荘で働くようになって半年、初めに比べると少しは働けるようになって、満足している自分がいました。でも姉様の施設で、学んだことなのに何も出来ない自分を知りましたです。

 それに……あおい荘しか知らないのに、ヘルパーとしてこの世界のことを分かってるような、傲慢な気持ちになってましたです。そのことに気付いた時、本当に恥ずかしくなりましたです」


「あおいちゃん。そういう風に考えること、決して悪くはないと思う。自分を戒め、次のステージに上ろうとする。それは素晴らしいことだと思う。でもね、あおいちゃんは決して無力なんかじゃない。あおいちゃんがいたからこそ、今の入居者さんたちの笑顔があるんだ。それは事実なんだ」


「直希さん……」


「前に言った通り。技術は後からいくらでもついてくる。でも気持ちはそうじゃない。そしてあおいちゃん、君には気持ちがある。だから大丈夫」


「ありがとうございますです」


「そのあおいちゃんが、誰に言われた訳でもなく、自分から世界を広げようとしている。それはすごいことなんだよ。

 介護と一口に言っても、まだまだ知らない世界はたくさんある。俺だって、いくつかの施設の経験しかないんだ。俺の見ている世界だって狭いんだ。

 あおいちゃん、君にはもっと広い世界を見てほしい。俺の知らない景色を見てほしい。そしてそれを、俺たちに教えてほしい、そう思ってる」


「……」


「もしあおいちゃんが、自分の世界を広げる為に他の施設で働きたいと思ったら、遠慮せずに言ってほしい。あおいちゃんが抜けるのは正直きつい。でも俺は、あおい荘が今以上になっていく為なら、その選択もありだと思ってる」


「直希さん……」


「だからあおいちゃん、どんなことがあっても負けないで。挫けそうになったらいつでも声をかけて。俺たちは仲間なんだから」


「直希さん……はいです、ありがとうございますです」





 夜も更けて来た頃、車はあおい荘に向けて走っていた。

 昼食以外の時間、ほとんどを車の中で過ごした二人は、流石に話し疲れた様子だった。


 市街に入ってしばらくして、直希は近くの駐車場に車を止めた。


「真っ暗ですね」


「うん。夜の海ってのは本当、怖いぐらい暗いね」


 車を降り、駐車場から海を見渡す。


「寒くない?」


 海から吹く風は冷たく、直希は一度身震いをした後であおいに聞いた。


「ふふっ……直希さんの方が寒そうです」


「あ、いや……面目ない。寒いのはどうも苦手で」


「これぐらいの寒さは平気です。私の街はもっと寒かったですから」


「そうだね。あおいちゃんの街、本当に寒かったから」


「直希さん、よければ私のコート着ますですか」


「いやいや、それは流石にプライドが許さないよ。俺だって一応男なんだし」


 そう言った直希の脳裏に、卒業式の日、つぐみにコートをかけたことが思い出された。


「お前より頑丈なんだよ、俺は」


 強がって見せたが、正直寒くてたまらなかった思い出に苦笑する。


「直希さん。私、直希さんにずっと聞きたかったことがあるんです」


「何だろう」


「あおい荘の名前のことです。直希さんはどうして、あおい荘と名付けたんですか」


「そういえば言ってなかったかな、あおい荘の由来」


「はいです」


「特に深い意味とかがあった訳じゃないんだ。ほら、俺ってそういうセンスないだろ?色々考えてみたんだけど、全部つぐみに却下されて」


「つぐみさんにですか。ちなみにどんな名前を考えてたのですか」


「……恥ずかしいからここだけの話にしてね。あの場所はみんなにとって楽しめる場所にしたかったから、『たのし荘』とか、『面白荘』とか考えてたんだ」


「『たのし荘』に『面白荘』……ふふっ、なんだか本当に楽しくなりそうですね」


「だろ?俺も結構いいんじゃないかって思ったんだよ。でもつぐみのやつ、何が何でも却下だって言って。大切な施設の名前、そんな駄洒落で決めるなんてありえないって言ってね。

 おかげで頭の中が真っ白になって、もう名前なんかどうでもいいんじゃないかって思ってたんだ。でもある時、ふと頭に浮かんだんだ。そうだ、花とかから取ったらいいんじゃないかって」


「……」


「花の名前って、綺麗な物が多いだろ?それに花言葉もあって、そこに意味もある。そう思って色々調べて出会ったんだ。葵に」


「葵は確か、個別の花と言うより」


「うん。葵科の植物って括りになるかな。俺はまず、その響きに惹かれた。そして特性。ほとんどの葵科の花は、太陽に向かって真っ直ぐに成長していくらしい。あと、花言葉としても色んな意味があったんだ。気高く威厳に満ちた美しさ、誠実さ、品格……

 誠実で真っ直ぐに育っていく。これは入居者さんというより、スタッフへの願いになるかな。いずれここに集ってくるまだ見ぬスタッフに、その願いを込めたんだ。ここはただの介護施設じゃない。一つの家族にするんだ。スタッフは入居者さんたちと触れ合って、共に成長していく。そう思ったら、この言葉が一番しっくりくると思えたんだ」


「……嬉しいです、直希さん」


「あおいちゃん?」


「父様が私の名前を考えた時も、同じ思いを持ってくれてたそうです。真っ直ぐに育ってほしい、誠実に育ってほしい。風見家の次女にふさわしい、品格を持った女の子になってほしい……直希さんがあおい荘に込めた思いは、私の名前に込められたものと同じなんです。嬉しいです」


 そう言って、幸せそうに微笑んだ。





「直希さんが今日誘ってくれたのは、あの日の返事の為、なんですよね」


「うん……分かってたよね」


「はいです。私はいつでも、直希さんのことを考えていますです。直希さんを見てますです。直希さんが何を考え、何を望んでいるのか。そんなことばかり考えていますです。

 直希さん、あの日から本当に真剣に、私のことを考えてくれてましたです。それは見ていて分かりました。告白からの一か月、毎日が忙しくて大変でした。栄太郎さんの退院、クリスマスに大掃除、お正月もありましたです。みなさんの帰省の為、準備もいっぱいしましたです。でもそんな中でも直希さんは、私の告白のことをずっと考えてくれてました。迷い、悩んでくれてました。私は……風見あおいは本当に幸せだって思いましたです。

 私の告白をこんなに真摯に受け止めてくれて、考えてくれている。それだけで私は、直希さんのことを愛してよかった、そう思いましたです。だから……直希さんがいっぱい悩んで出した答え、それがどんなものであっても、私は満足出来ますです」


 そう言って微笑んだあおいに、直希も笑顔で応えた。


「ありがとう、あおいちゃん」


「直希さん……私はあなたのことが大好きです。これからもずっと、あなたと一緒に人生を歩んでいきたい、そう思ってますです。

 直希さん。返事、聞かせてくださいです」


 そう言って直希の目を真っ直ぐに見つめる。

 直希は小さくうなずいた。



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