第182話 技術と気持ち


「ただいま」


 あおい荘に戻って来たつぐみが時計を見ると、2時を少しまわっていた。

 昼食とおやつの間のこの時間は、あおい荘にとって一番静かな時間帯でもあった。


「今日の入浴当番は……菜乃花だったわね」


 そうつぶやき食堂に入ろうとしたつぐみの目に、二人の人影が映った。

 つぐみが咄嗟に身を隠し、中をうかがう。

 直希とあおいだった。


「……」


 隠れる必要なんてない。分かっていた。でも、体が自然に動いてしまった。

 そんな自分がおかしくて、自嘲気味に笑った。




 食堂では直希が椅子に座り、あおいが前に立っていた。


「じゃあ次ね」


「は、はいです!よろしくお願いしますです!」


 よく見ると、直希は仕事中にしては珍しく、ワイシャツを着ていた。

 そしてあおいの緊張した顔。一体二人は何をしているのだろうか、つぐみが興味深そうに二人を見つめた。


「次は半身麻痺の利用者さんの更衣介助。右麻痺と仮定しよう」


 そう言って直希が右手を曲げ、拳を胸元あたりにやった。


「じゃああおいちゃん、まずは僕のシャツ、脱がしてくれるかな」


「分かりましたです!では新藤さん、お着換えのお手伝い、させていただきますです!」


 直希は苦笑し、「そんなに緊張しないで。いつも通りでいいから」と優しく言った。

 ボタンを外そうとするが、うまく外すことが出来ない。


「あおいちゃん、落ち着いて。これは試験でもなんでもないんだから。それともう少し、近付いた方がいいと思うよ」


「そ、そうですね、すいませんです。では直希さん、失礼しますです」


 額の汗を拭いながら、あおいが直希との距離を詰めた。

 息がかかるほどの距離で、あおいがボタンを外していく。


「出来ましたです、直希さん」


「よし、それじゃあ服、脱がしてみようか」


「は、はいです!」


 そう言って袖をつかもうとしたあおいだったが、果たしてどちらの手から外せばいいのか迷い、動きを止めた。


「あおいちゃん、これは初任者研修で習った事だよ。思い出して」


「はい、そうでしたです……すいません直希さん、少しだけ考えさせてくださいです」


 そう言って直希の上半身を見つめる。

 右手は麻痺していて曲がっている。左手に障害はなく、自由に動く。

 確かにこれは、初任者研修で習ったことだ。あおいが眠っている記憶を手繰り寄せようとする。そしてしばらくしてはっとすると、左手(健側)の袖を持った。

 肘を曲げてもらって袖を引くと、うまく脱がせることが出来た。そして最後に右手の麻痺に気を付けながら、ゆっくりと袖を外していく。


「よく出来ました。正解だよ、あおいちゃん」


 直希がそう言って笑うと、あおいは「ありがとうございますです」と安堵の表情を浮かべた。


「それじゃあ次、着せてもらえるかな」


 続けて直希がそう言うと、あおいは更に緊張した面持ちでうなずいた。

 今、脱がせる時は健常な方から始めた。では、着せる時はどっちからなのか。

 直希の状態を何度も観察し、健側からなのか患側からなのか考える。


 そんなあおいの様子を見ながら、つぐみはいつの間にか拳を握り締めていた。

 あおい……考えなさい。脱がせる時、どうして健側からにしたのかを。そうすれば着せる時にどっちからなのか、分かるはずよ。


 しばらく考えたあおいが、もう一度直希の左手(健側)を持って袖を通した。

 難なく袖が通ると安堵した表情を浮かべ、右手(患側)の袖を通そうとした。しかしそこで動きが止まった。


「あ……あれ、違います……ですか」


 曲がっている右手に袖を通そうとすると、無理に腕を伸ばさなくてはならない。しかも既に左手に通しているため、衣服に余裕がなく、いくら引っ張っても右手に通すことが出来なかった。


「よし、ここまでにしよう」


 固まっているあおいに向かい、直希がそう言った。

 そして椅子から立ち上がると、今度はあおいに座るように促した。あおいが力なくうなずいて座ると、シャツを持ってあおいの前に立った。


「脱ぐときは健側から。その方が腕の自由がきくし脱ぎやすい。それに片方の袖を脱ぐから、患側を脱がせる時に布に余裕があって取りやすくなる。

 でも着せる時は逆。まず患側から着てもらうんだ」


 そう言って、曲げているあおいの右手(患側)に手をやり、ゆっくりと袖を通していく。そして次に左手(健側)に袖を回すと、スムーズに袖を通すことが出来た。


「脱健着患。思い出したかな」


「はいです……すいません直希さん。私、講習でちゃんと習ったはずだったのですが」


「仕方ないよ。例え知識として理解していても、実戦で使ってないと体が動いてくれないものなんだ」


「でも……それでも、まだ講習を受けて半年も経ってませんです」


「こういうのは実践あるのみなんだ。理屈で分かっても、いざやろうとした時に絶対混乱する。でももし、あおいちゃんが特養(特別養護老人ホーム)で働いていたとしたら、考える前に体が勝手に動いていたはずだ。だからね、あおいちゃん。落ち込む必要はないよ。ここには麻痺の人もいないし、練習する機会もなかった訳だから」


「はいです……」


「あおいちゃんがしおりさんの施設で働いて、自分がヘルパーとしてまだまだだと感じた。だからもう一度、実務者研修を受ける前に勉強し直したいと思った。それはすごいことだと思う。そうして常に自分を戒めて、前に進もうとする姿勢は何よりも尊いことだ。でもね、あおいちゃん。いつも言ってることだけど、自分は何も出来ないとか無力だとか、人と比べて劣ってるとか。そういうことを考えて落ち込む暇があるんだったら、その前にするべきことがあると思うよ」


「……」


「あおいちゃんは間違いなく立派なヘルパーだ。それは俺が保証する」


「でも私……姉様の施設で、オムツ交換もうまく出来なくて」


「それもそう、経験が少ないからなんだ。でもね、あおいちゃん。あおいちゃんが彼らに比べて未熟だとしても、俺はあおいちゃんのこと、立派なヘルパーだと思ってる」


「どうしてですか」


「だってあおいちゃんには、気持ちがあるから」


「気持ち……」


「うん、そう。この仕事はね……いや、違うな、どんな仕事であっても、回数をこなしていけば、年数を重ねていけば技術は自ずとついてくる。あおいちゃんが苦労したオムツ交換だって、半年も毎日やっていたら、必ず他の人たちと同じようにすることが出来る。

 でもね、気持ちだけはそうじゃない。利用者さんに対する気持ち、思いだけは、ある意味その人が元々持ってる本質と言っていいと思うんだ。いくら技術が上がっていっても、利用者さんに対する気持ちがぞんざいなら、それは違うだろ?」


「……はいです、それは確かにそうなのですが」


「君にはその、ヘルパーとして一番大切な気持ちがある。利用者さんの為になりたい、少しでもお役に立ちたい、笑って欲しい、幸せになって欲しい……そんな思いを持っている。だから大丈夫、俺は何の心配もしていない。

 もう一度言うよ。技術は続けていけば身についていく。だからあおいちゃん、自信を持ってほしい。それに俺でよければ、こうやっていつでも付き合うから」


 そう言って笑顔を向けると、あおいは顔を真っ赤にしてうつむいた。


「直希さんには本当、励まされてばかりです」


「そんなことないよ。俺の方こそ、こうしてあおいちゃんに教えることで、また新しい発見があったりするんだ。お互い様だよ」


「ありがとうございますです、直希さん」


 照れくさそうに笑顔を向けると、直希も一緒になって笑った。

 そんな二人を見つめながら、つぐみも微笑んでいた。

 そして同時に、二人の絆が強くなっていくのを感じ、小さくうなずくのだった。



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