第179話 逃げたくない


 新しい年を迎えて数日が経った。

 この日、つぐみは須藤に誘われ、街の喫茶店に来ていた。




「ふふっ、お兄ちゃん、さっきからそればっかり」


「いやいや、そうは言うけどさぁ……休みってのは、どうしてこうも早く終わってしまうのかな」


「早くって言ってもお兄ちゃん、一か月も休暇取れたんでしょ。そんなに長い間休める人なんて、そうそういないよ?」


「それはそうなんだけど……ああ駄目だ、戻りたくない」


「何言ってるのよ。ドイツにはお兄ちゃんを待ってる人、たくさんいるでしょ」


「……休みってのは、取れるまでが楽しいんだってつくづく思ったよ。長ければ長いほど、終わる日を指折り数えてビクビクしちゃって……贅沢なのは分かってるんだけどさ、それでも……ああもう、あと10年ぐらい休みたいよ」


「ふふっ、やっぱりいくつになっても、お兄ちゃんはお兄ちゃんよね」


「そうかな」


「うん。だってお兄ちゃん、学生時代もそんなこと言って、お父さんに叱られてたじゃない」


「そうだったかな……ははっ、そうかもしれないね」


「そうよ、全く……ふふっ」


 小さく笑い、コーヒーに口をつける。


「一週間後にはお兄ちゃん、戻ってしまうのよね」


「ああ。でもまあ、夏ぐらいにはまた休暇も取れるだろうし、今はそれを希望に頑張るとするよ」


「患者さんの為にもそうして頂戴ね。でも……本当によかったわ、お兄ちゃんがいてくれて」


「栄太郎さんのことかな」


「うん。栄太郎おじさんがあんなことになってしまって、私もどうしていいか分からず、とまどってしまった。でもお兄ちゃんがいてくれたから……お兄ちゃんが励ましてくれて、そして色々と教えてくれたから、私も頑張らなくちゃって思えたの。お兄ちゃんの話を聞いて、もっと勉強しなくちゃって思えたし」


「つぐみちゃんはよくやってるよ。東海林先生のところでもだけど、あおい荘でもね」


「まだまだだと思ってるわ」


「自分に厳しいところは相変わらずだね」


「でも……今回の件があって、本当にそう思ったの。お兄ちゃんはよくやったって褒めてくれたけど、でもあの時だって、栄太郎おじさんの症状に確信があった訳じゃない。勇気があった訳でもない。もしかしたら……そう思った時、体が勝手に動いただけ。こんなの医療でもなんでもない、ただ衝動で動いただけなの」


「でも結果的に、それが正しかった」


「結果を見ればそうなのかもしれない。でもね、私が目指しているのはそうじゃないの」


「つぐみちゃんは本当に、色んなことに真剣に向き合ってるね。僕とは大違いだ」


「そんなことないと思うわよ。だってお兄ちゃんは、正に生きるか死ぬかの患者さんたちと向き合って、そしてたくさん救っているんだし」


「救えなかった命もある」


「……」


「勿論医者だから、そういうことがあることも理解している。いつまでもそのことに囚われてしまってはいけない、切り替えないと前に進めない、そう思ってる。でもね、それでも……時々思うんだ。僕にもっと力があったら、あの人は救えたんじゃないかって」


「お兄ちゃん」


「この仕事をしている限り、その問いは永遠に続くんだろうなって思ってる」


「やめようと思った事、あるのかしら」


「そりゃもう、しょっちゅうね。患者さんに気付かれないようにするのに必死だよ、全く」


「直希がね」


「直希くんが、どうかしたのかい?」


「昔の話なんだけど、初めて入った職場で事故を起こしたことがあるの」


「……」


「夜勤の時、直希の目の前で利用者さんが転倒したの。その利用者さん、元々歩行に問題のある方だったんだけど、それでも見守りをすれば大丈夫ってぐらいの人だったらしいわ。

 徘徊の多い利用者さんだったそうよ。だから直希も気をつけてはいたんだけど、グループホームで、他にも利用者さんが8人いて……その人を見守っていた時、別の利用者さんが徘徊を始めて……ちょっと目を離した隙にその方、転倒しちゃって」


「……夜勤は大変だよね。何もなければ楽なんだろうけど、不思議と利用者さんが不穏になる時って重なるからね。そうなったら一人ではとても対応出来ない」


「それでその方、腕を骨折してしまって……戻って来た時には寝たきりになってた。足の筋力が落ちてしまって、もう二度と立ち上がることも出来なくなってた」


「……そうなんだ」


「その方、それからどんどんADL(日常生活動作)が落ちていって、認知も進んでいったらしいの」


「直希くんは何て」


「その話を聞いたのは、半年ぐらい後になってからだった。たまたま話の流れで、直希が話してくれたんだけど……泣いてたわ。あの人の人生、自分が踏みにじってしまったって」


 その言葉は、患者を死なせてしまった時にいつも感じていることだ、そう須藤が思った。


「でもね、泣いた後でこう言ったの。俺は前に進むって」


「……」


「自分のしてしまったこと、それはこれから俺が背負い続けていく。でも俺は進むのをやめない。ここで立ち止まってしまったら、進むのをやめてしまったら、俺は何の為に介護の世界に入ったのか分からなくなってしまう。こんな言い方をしたら利用者さん、ご家族には申し訳ないと思う。でも俺は、その利用者さんに出来なかったことを、これから出会う利用者さんにしていくんだ。自分への言い訳だと分かってる、でも俺は、それでもやっていくんだ。前に進むんだ、そう言ったの」


「……直希くん、本当に強くなったね」


「ある意味、医療や介護の世界に携わる者の宿命なのかも知れない。あの時の直希だってそう。決して直希だけの責任じゃない。同時に二人三人の対応をすることなんて出来ないんだから。でも、自分だけのせいじゃないと分かっていても、その失敗は一生付きまとう。そしてそれは明日、また起きるのかも知れない」


「確かに……そうだね。例え落ち度がなくても、事故は起こってしまうものだから。そしてそのことで、この世界から離れてしまう人が多いのも事実だ」


「直希はそれが嫌だった。それは逃げになると言っていた。その利用者さんのことで責任を取ろうとしても、結局何も出来ない。仮に利用者さんの足が治ったとしても、治るまでの期間の苦痛はどうすることも出来ない。謝って自分も骨折する?そんなことをしてもその人は喜ばないし、何の償いにもならない。だったら自分は、自分に出来ることを精一杯するしかない。それはこの仕事を続け、二度と同じミスをしないように気を付けることだって、そう言ってたわ」


 つぐみの口から聞かされる直希の思いに、須藤は圧倒された。どんな人生を歩めば、こんな考え方が出来るんだろう。

 彼はいつもそうやって自分を鼓舞し、進んできた。しかし進めば進むほど、背負う十字架は重くなっていく。それでも彼は進むのをやめず、恐れない。


 どこまでも自分に厳しく、一切の妥協を許さない生き方。

 だからこそ、今の彼がある。

 そしてそんな直希を信頼し、支えて来たつぐみを誇りに思った。



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