第21章 たどりついた答え

第178話 除夜の鐘


「おまたせ」


 直希が蕎麦を持ってくると、あおいは恐縮した様子で頭を下げた。


「すいませんです直希さん。大晦日までお世話かけてしまいまして」


「いいんだよあおいちゃん。一年の締めは俺の作った年越し蕎麦、これはあおい荘の恒例行事にするつもりだから」


 そう言って笑顔を向けると、あおいも嬉しそうに笑った。


「ほい、つぐみも」


「ありがとう、直希。昼間何をしてるのかと思ってたんだけど、手打ちにしてたのね」


「ああ、やり方は何となく知ってたけど、やってみたのは俺も初めてなんだ。うまく出来てるといいんだけど」


 そう言ってテーブルに置くと、直希も同じテーブルに座った。


「では……いただきます」


「いただきます」





 大晦日。

 あおい荘はいつになく静かな夜を迎えていた。


 この数日で、入居者のほとんどはそれぞれの実家に帰省していた。

 そしてそれは、直希の強い意向でもあった。


 あおい荘の入居者たちは皆、ADL(日常生活動作)も自立していて、認知等の症状もほとんど見られない。

 しかし年齢を考えると、いつ何が起こっても不思議ではない。

 以前しおりに言った言葉。


「高齢者の皆さんは、悪くなることはあっても良くなることはないんです」


 そのことを直希は、現実の問題として理解していた。

 今日元気だとしても、明日どうなのかは誰にも分からない。

 だから今、元気な内に少しでも多く交流を持ってほしい、そう願っていた。

 日頃仕事で忙しい家族たちも、年末年始であれば時間を作れる人が多い。

 ならこの時期、団欒のひと時を持ってもらいたい。

 ひょっとしたら、今年が最後になるのかもしれない。

 考えたくないことだったが、事実そうなってしまうこともある。そしてそうなった時に後悔しても、もう手遅れなのだ。

 だから彼は、長期の休暇を持てるタイミングで、家族に対してそう提案していたのだった。




 山下も息子、祐也が早々に迎えに来た。

 あおい荘での年越しを希望し、消極的だった山下だが、迎えに来た祐也や孫の顔を見ると、嬉しそうに帰っていった。


 小山も息子夫婦の家へと帰っていった。菜乃花も小山と一緒に帰省することになり、直希は一週間の休暇を出したのだった。


 あの告白以降、しばらくはぎこちない関係が続いていた。しかしある日、直希を呼び出した菜乃花の口から、これまでの謝罪、そしてこれからもあおい荘で楽しく生活していきたい、そう言われた。

 菜乃花は、何かが吹っ切れたような表情をしていた。それが初恋という呪縛から解放された安堵感なのか、それとも傍らで見守っている兼太のおかげなのかは分からない。だが直希は、新たな一歩を踏み出そうとしている菜乃花の笑顔に、彼女の強さを見たような気がした。

 これからも彼女を見守っていきたい、そう強く思ったのだった。




 そして驚いたことに、あれだけ生田との同居を拒んでいた息子兼吾の嫁、仁美が兼太と共に迎えにやってきた。夏にあおい荘に来た時とはまるで違う雰囲気で、「お義父さん、お正月、うちで過ごしていただけませんか」と頭を下げてきたのだった。

 仁美の隣で、照れくさそうに頭を掻く兼太も嬉しそうで、「そういうことだからさ、じいちゃん。うちで一緒に年を越そうよ」と言って笑った。


「しかし……勉強の邪魔になるのでは」


「大丈夫だって。その為に俺、毎日頑張ってるんだからさ。正月の三日間は好きにしていいって、母ちゃんからも許可貰えたし」


「そうなのか?」


「うん。だからじいちゃん、うちでゆっくりしてくれよ」


「そうか、そうなのか……ははっ、孫にそこまで言われるというのは、嬉しいものだな……仁美さんも、ありがとう」


「いえ、そんな……私の方こそ、失礼なことばかりしてしまいまして」


「いやいや、仁美さんが謝ることなど、何もありませんよ」




 節子も安藤が迎えに来た。

 安藤は直希に深々と頭を下げ、涙ながらにこう言った。


「本当に……直希さん、それにみなさんには何とお礼を言えばいいのか……こうして母さんと一緒にお正月を迎えられるなんて、もう二度とないことだと思ってました。まるで夢を見ているようです」


「よかったですね、安藤さん。ですがそれは、俺たちだけの力じゃありませんよ。安藤さんが節子さんのことを諦めず、支えてくれたからなんです。どうかいいお正月を迎えてください」


「直希さん……」


「節子さんもお正月、安藤さんと楽しんでくださいね」


「あんたもね」


 直希に頭を撫でられた節子が、照れくさそうに笑った。





「でも……こんなに静かなあおい荘って、違和感あるわよね」


「そうですね。ここに来て半年になりますが、私もそう思いますです」


「まるで……オープンした頃みたいね」


 食堂で三人、そう言って笑い合う。


「ここは本当に、毎日騒々しいから」


「ですです。私はそれが本当に楽しいです」


「……その騒々しい理由の中に、あおいの失敗もあるんだけどね」


「ひゃっ……す、すいませんです」


「こらこらつぐみ、そうやってあおいちゃんをいじめないの」


「ふふっ……あら、このお蕎麦おいしい」


「そうか?」


「ええ。コシも強いし、それに出汁だしも……うん、おいしいわ」


「よかった。勉強したかいがあったよ」


 直希が笑顔を向ける。その笑顔につぐみが、そしてあおいも顔を赤くしてうつむいた。


「明日香さんも帰省したし、本当に静かになっちゃったよな」


「そうね。でもあおい、あなた本当によかったの?」


「はいです。風見家の元旦は、新年の挨拶に来られるお客様への対応で終わってしまうんです。風見家としては、二日が元旦みたいなものですので。それに私も、あおい荘で年を越したかったですから」


「ならいいんだけど。何と言ってもあおいにとっては、分かり合えたご家族さんと迎えるお正月なんだものね」


「それもこれも、みなさんのおかげです」


「何言ってるのよ。あなたが頑張ったからでしょ」


「そうだよあおいちゃん。二日に家に帰ったら、この前話せなかったこととか、いっぱい話してくるといいよ」


「直希さん、つぐみさん……はいです、ありがとうございますです」


「スタッフは三人、そして入居者さんも三人かぁ……ちょっと寂しいわね」


「じいちゃんばあちゃんと西村さんだけだもんな」


「あの……栄太郎さんや文江さんはともかく、西村さんは、その」


「西村さんは自分でも言ってる様に、身内の方がいないからね。仕方ないよ」


「まあでも、いいんじゃないかしら。あおい荘に住んでなかったら西村さん、それこそ本当に一人っきりでの年越しだったんだから」


「探せば一緒に過ごしてくれる人、一人ぐらいはいそうだけどな」


「昔の遊び仲間でしょ、それって」


「そうなんだけど」


「西村さんだって考えたとは思うわよ。でもね、考えた上で、ここで年を越すって決めたの。それは西村さんにとって、あおい荘こそが自分の家だって思ってるからじゃないかしら」


 そう言って、少し悲しげな顔をしているあおいの肩に手をやった。


「西村さんにとって、ここが家なの。そして……私たちこそが家族なのよ」


「そうだよあおいちゃん。だからそんな顔しないで」


「そう、ですね……はいです、そうなんですね。すいませんでしたつぐみさん、直希さん。西村さんは、あおい荘だからいいんですよね」


「そういうこと。それにほら、明日は俺とじいちゃん、それに東海林先生と一緒に麻雀大会の予定だしさ」


「ほどほどにしておきなさいよ。あなたも腰、そんなによくないんだから」


「分かってるよ。付き合い程度にしておくから」


「直希さん直希さん、よければ私もお付き合いしますです」


「あおいちゃん、麻雀出来るの?」


「はいです。これも淑女のたしなみの一つだと、姉様に教えられましたです」


「しおりさん……ははっ、ほんと、謎の人だな」





「じゃあ直希、あおい。また明日ね」


 車のドアを開け、つぐみがもう一度振り返って声をかける。


「ああ。気をつけて帰れよ」


「つぐみさん、今年一年、本当にお世話になりましたです」


 あおいがそう言って頭を下げると、つぐみは微笑んで頭に手をやった。


「私の方こそ……あなたには本当に、色々と教えてもらったわ。それに……助けられた」


「つぐみさん……」


「あなたたちも夜更かしせずに早く寝るのよ。入居者さんが三人と言っても、休みという訳ではないんだからね。私も昼頃には来れると思うから」


「おう。おじさんによろしくな」


「ええ。それじゃあよいお年を」


「ああ。よいお年を」


「よいお年をです」





「……」


 車が出てしばらくすると、また辺りを静寂が包んだ。


「静かだね」


「そうですね……こんな静かな夜、初めてかもしれませんです」


「こんなに静かだと、いつもは気付かない音なんかも聞こえてきて、何だか新鮮な感じだよね」


 星空を見上げて笑う直希の横顔に、あおいはまた頬を染めた。


「な、直希さん、その……」


「え?何かな、あおいちゃん」


「は、はいです……直希さん、その……」


 あおいが何かを口にしようとしたその時、おごそかな鐘の音が響いた。


「あ……」


「除夜の鐘……です」


 星空の下、二人を鐘の音が優しく包み込む。

 かすかに聞こえる波の音と重なり合い、別世界にでも入り込んだような不思議な感覚。耳を澄ませる二人が共に笑顔になる。


「……それで?あおいちゃん、何だっけ」


「あ、いえ、その……」


 言葉を濁すあおいを見て、直希が首をかしげる。そんな直希に苦笑して、あおいが満面の笑みを浮かべて言った。


「直希さん。来年もよろしくお願いしますです」



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