第172話 初恋


 隣に座った直希は、自販機で買ってきたミルクティーを菜乃花に渡した。


「待たせちゃったかな」


「いえ、そんなことないです。私が勝手に、早く来ただけですので」


「帰って着替えた方がよかったんじゃない?制服のままだと寒いだろ」


「いえ、大丈夫です。ここで海を見て、色んなことを考えたかったので」


 そう言って一口飲み、「あったかい……」と笑みを漏らした。


「……ここに来てから、本当に色んなことがあったんだなって、そう思ってました。おばあちゃんと初めてあおい荘に来た日、あおい荘の雰囲気に驚いて……直希さんに会って……男の人とあんなに話をしたのは初めてで……でも直希さん、私に目線を合わせてくれて、穏やかに笑ってくれました。私が怖がらない様に気を使ってくれて……それが嬉しかった事、よく覚えています。

 それからの毎日は、ものすごく目まぐるしく動いていたように思います。毎日が新鮮で、キラキラ輝いていて……あおい荘に住むようになってからは特にそうで……まるで自分じゃないみたいで、いつも笑って……本当に楽しかったです。

 つぐみさんと友達になって、明日香さんとも仲良くなれて……あおいさんに楽しい毎日をもらって、笑顔をもらって……夢みたいでした。

 私は他人が苦手で、いつも怯えてました。男の人は勿論だけど、女の人に対しても、いつも身構えていました。何もされないって分かってるのに、視線が怖くて……笑われているような気がして、本当に怖かったです。

 でも、文化祭が終わった頃から、自分でも驚くぐらい肩の力が抜けていました。あれだけ緊張していた教室なのに、まるで自分に『ここにいていいんだよ』って囁かれてるような気がして……クラスメイトとも普通に話せるようになってました。

 そう思って考えてみたら、やっぱりそれは、全部直希さんがいてくれたからなんだと思いました」


「菜乃花ちゃんが頑張ったからだよ。前を向いて生きていこう、そう菜乃花ちゃんが決意したから、世界が変わっていったんだと思うよ」


「以前、生田さんからも似たようなことを言われました。あの時も本当に嬉しかったです。私……あおい荘に出会えて、直希さんに出会えて、本当に幸せだと思いました」


「俺もだよ。俺も菜乃花ちゃんと出会えてよかった、そう思ってる」


「ありがとうございます……でも私、そんな大切な場所なのに、あんなことしちゃって」


「……」


「自分でもよく分からないんです。どうしてあの時、あんなことを言ってしまったのか……でも私、あおいさんたちに悪いことをしたと思ってますけど、それでも直希さんに告白したこと、後悔してません」


 そう言って、直希を真っ直ぐに見つめた。


「直希さん……好き、好きです……私はずっと、この想いを育ててきました。あなたと一緒に未来を歩いていけたら、それはどんなに幸せだろう……ずっと思ってきました。あなたの隣に立っていたい、あなたと一緒に、同じ景色を見ていたい……それが私の望みなんです」


「菜乃花ちゃん……」


「直希さん、愛しています。私は子供だし、正直、愛してるってことの意味もよく分かっていません。でもきっと、今の気持ちがそうなんだと思います。私は直希さん、あなたに会う為に生まれてきたんだ、そう思ってるんです」


「……」


 菜乃花の強い視線を、直希が受け止める。

 そして静かに目を閉じると、菜乃花に頭を下げた。




「菜乃花ちゃん、ごめん。俺は君と一緒になれない」






 その言葉は菜乃花にとって、覚悟していた物だった。

 あんなタイミングで告白して、直希が受け入れてくれる訳がない。

 分かっていた、筈だった。


 でも、それでも。


 その言葉を聞いた瞬間、菜乃花の目には涙が溢れて来た。


「いい加減な生き方をしてきたと思う。それが今の様な状況を作ってしまった。たくさんの想いを振り回して、悩ませてしまった。苦しませてしまった。

 謝ってどうこうなる問題じゃないと思う。でも、それでも俺は、勇気を出して告白してくれた菜乃花ちゃんに、正直な気持ちを伝えたい。

 ――俺は菜乃花ちゃんと付き合うことは出来ない。何があっても」


 直希の言葉に、菜乃花は胸をえぐられるような感覚を覚えた。


「……そんな……酷い、酷いです直希さん……どうしていつもみたいに、優しく言ってくれないんですか……どうしてそんな、全て断ち切るような怖い言い方、するんですか」


「俺のいい加減な態度が、菜乃花ちゃんにいっぱい誤解を与えてしまった。俺は確かに、菜乃花ちゃんに同じ景色を見てほしいと思ってた。願ってた。でもそれは、一人の女性としてでなく、同じ介護の世界に生きる仲間としての物なんだ。

 菜乃花ちゃんは魅力的な女の子だ。でもごめん、それでも俺は、菜乃花ちゃんと付き合うことは出来ない」


「直希……さん……」


「俺には好きな人がいる。これまでずっと、向き合わないようにしてきた。でも今、やっと向き合うことが出来たんだ。そして菜乃花ちゃん、それは君じゃない」


 直希が語気を強めて言い切った。


「酷い、酷い……そんなにはっきり言われちゃったら、もう私、何も言えないじゃないですか……私が今まで育てて来た想い、全部無駄になっちゃうじゃないですか……あなたと一緒に街を歩いて、あなたと一緒に未来を語り合って、あなたに触れて、あなたに抱き締められて……全部、全部今、なくなっちゃったじゃないですか」


「ごめん、菜乃花ちゃん」


「嫌……嫌です!私は直希さんのことが好き、好きなんです!私のどこが駄目なんですか?言ってください!私、直希さんに愛される為なら、全部捨てます!全部直希さんの為に変えてみせます!お願いです直希さん、私を見捨てないでください!」


「例え菜乃花ちゃんがどう変わったとしても、菜乃花ちゃんの気持ちを受け入れることはないよ。俺には好きな人がいる。もし駄目だったとしても、菜乃花ちゃんのことを好きになることはない」


「直希さん、直希さん……嫌、嫌です……今の直希さん、怖いです……いつもみたいに優しくしてください、私を受け入れてください」


 流れる涙を拭おうともせず、直希の服をつかんで菜乃花が訴える。

 しかし直希は首を横に振ると、やがてゆっくりと立ち上がった。


「え……直希……さん……?」


 今までに感じたことのない冷たい素振りに、菜乃花は呆然とした。

 その菜乃花に視線を移すことなく、


「ごめん、菜乃花ちゃん」


 そう言って歩き出した。


「嫌……嫌ああああっ!直希さん、直希さん、うわあああああっ!」


 背中から菜乃花の泣き叫ぶ声が聞こえる。しかし直希は一度も振り返ることなく、その場を後にした。





「……来てくれたんだね」


「ええ……直希さんから連絡を貰ったんですから。それに菜乃花ちゃんが心配で……でも直希さん、どうしてあんな」


 うずくまり、肩を震わせている少年。

 直希が呼んだ、兼太だった。


「直希さん。直希さんはもっと大きな人だと思ってました。俺みたいなガキじゃなくて、直希さんはたくさんの辛いことも見てきて……だから誰よりも人の痛みの分かる人だと思ってました。それなのに……

 どうしてあんな酷いことを!菜乃花ちゃん、今も泣いてます!どうして慰めてあげないんですか!どうして彼女の想い、全てを否定するようなことを!」


「……俺の役目じゃないよ、それは」


 兼太が直希を睨みつける。そして驚いた。

 直希の目が真っ赤になっていた。


「俺だってこんなこと……したい訳ないじゃないか。でもね、兼太くん。恋愛には、受け入れるか拒絶するかしかないんだ。いくら言葉を取り繕ったとしても、結果は変わらない。それに……今までがそうだったから、俺は菜乃花ちゃんにいらぬ期待を持たせてしまったんだ」


「……直希さん」


「菜乃花ちゃんのこと、ずっと守りたいと思っていた。なのに俺が……一番菜乃花ちゃんのこと、傷つけてしまった」


 拳を握り締め、肩を震わせる。


「でも、俺にはああするしかなかったんだ。ごめんね、兼太くん。君の大切な菜乃花ちゃんに、酷い仕打ちをしてしまって。

 今、君に殴られるのなら構わない。君にはその権利がある」


「俺は……そんなこと」


「兼太くん。君をここに呼んだのは、君が菜乃花ちゃんのことを本当に好きだと思ったからだ。俺と菜乃花ちゃんの問題は、今俺が終わらせた。何をどうしても、二度と戻れないぐらいにね。

 これから君がどうするのか。それは君が決めることだ。俺のことを憎むのは構わない。でもその前に君には、するべきことがあると思う。だからそれは……君が考えて行動してほしい」


 震える肩に手をやり、直希がそう言った。


「直希さん……直希さんも菜乃花ちゃんも、そして俺も……みんな、みんな不器用ですよ……みんな大馬鹿野郎ですよ……」


「ああ……そうかもね」





 石段から動けずに泣き続ける菜乃花。

 その菜乃花の肩に、兼太がそっと手をやる。


「……」


「菜乃花ちゃん……」


「兼太……くん……どうして」


「ごめん、こんな所に来ちゃって」


「兼太くん、ずるい、ずるいよ……こんなの反則じゃない……私、今そんなことされたら」


「俺のことは今、考えなくていいよ。俺はただ、したいと思うことをしてるだけなんだ」


「兼太……くん……うわああああっ、うわああああああっ!」


「頑張ったね、菜乃花ちゃん」


「うわあああああああっ!」


 冬の海に、菜乃花の泣き叫ぶ声が響く。

 兼太は目に涙を浮かべながら、そんな菜乃花を抱き締めた。

 力の限り、強く、強く。



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