第168話 大喧嘩


 さかのぼって、あおいが戻って来た日の夜。

 あおいはつぐみの部屋に来ていた。


「つぐみさん、ほっぺた大丈夫ですか」


「ええ、だいぶ腫れも引いてきたみたいだし」


 つぐみはタオルに氷を挟み、頬に当てていた。

 そんなつぐみを見て、あおいが申し訳なさそうに頭を下げる。


「なんと言いますか、その……私のせいで、色々すいませんです」


「何言ってるのよ。これはあおいのせいなんかじゃないから」


「でも……」





 微妙な空気の中、夕食が終わった後のことだった。

 直希への告白、明日香やつぐみに対して吐いた言葉。それらは菜乃花にとっても、想定してなかったことだった。

 あの時、直希とあおいの間に生まれつつある絆に危機感を抱き、気が付けば入居者たちのいる前で告白してしまった。

 でもそれはいい。確かに、あおいを歓迎していた空気を壊してしまった、そのことに対して申し訳ない気持ちはあった。それでも自分の中に生まれた、抑えきれない焦りの気持ちが、直希への二度目の告白につながったのだ。そうでなければ、いつ直希に伝えられたか分からなかった。


 それよりも菜乃花の中で後悔していたのは、つぐみのことだった。

 明日香が直希にプロポーズしていることは、ある意味周知の事実だった。

 しかしつぐみは違う。彼女は直希を想いつつも、その気持ちをずっと隠してきた。

 その想いを、みんなの前で叫んでしまった。

 それは、彼女に対する裏切り行為だった。


 悔やんでも悔やみきれない。そう思いながら力なく部屋に戻ろうとした菜乃花に、つぐみが声をかけてきた。


「菜乃花。ちょっといいかしら」


「つぐみさん……はい、何でしょうか」


「ここでは何だから、ちょっと庭まで来てもらえるかしら」


「……分かりました」


 つぐみの後に続き、庭に出た菜乃花。

 花壇の前に立つとつぐみは振り返り、菜乃花を厳しい目で見つめた。


「菜乃花。今日のこと、どう思ってるのかしら」


「どうって……何がですか」


「何がって……あなた、自分がしたことの意味、分かってるの?今日がどういう日だったかは分かるわよね。昨日実家に連れ戻されたあおいのことで、みんな不安になってた。もう二度と会えないんじゃないか、そんな気持ちで夜を明かした。そのあおいが、またここに戻って来てくれた。あの時の入居者さんたちの嬉しそうな顔、覚えてるわよね」


「……はい」


「だからみんなで、あおいが戻ってくるのを待ってた。生田さんなんか、まだ早いって言うのに、一時間も前から庭で待ってた。

 みんな、あおいを待っていた。あおいが戻ってくることを喜び合っていた。あおいだって、心細い思いをしてたと思う。そんなあおいをみんなで迎えて、ここがあなたの家なんだ、私たちは家族なんだ、おかえりなさいって言ってあげよう、そう思っていた。

 その空気を壊したのよ。何があったのか知らないけど、どうしてあんなタイミングで、直希に告白なんかしたの」


「それは……」


「おかげでさっきの夕食会だって、お通夜みたいだったじゃない。あなたはずっとうつむいたままだし、あおいや明日香さんだって気まずそうにしてた。何より私が怒ってるのは、入居者さんに気を使わせたことよ。

 どうして入居者さんが、私たちに気を使わないといけないのよ。どうして、その空気を壊した本人が、入居者さんに背を向けたまま黙ってるのよ」




 つぐみの厳しい言葉に菜乃花は、全てその通りだと思っていた。自分のしたことは子供じみていて、周りの人たちも巻き込んでしまった。

 本当に申し訳ないと思った。


 でも。


 そう思っている自分の中に、別の感情が芽生えていた。

 どうしようもなく狂暴な何か。

 つぐみが言葉を放つたびに、その獣は前に前にと現れて来た。




「どうなのよ菜乃花、黙っていないで、ちゃんと答えなさい」


「……何をそんなに怒ってるんですか、つぐみさん」


「え……」


 菜乃花がゆっくりと顔を上げ、つぐみを見据えた。

 つぐみはその目に覚えがあった。

 それはいじめにあった菜乃花を追って、部屋に入った時に見た目と同じだった。


 自らを蔑み、貶める冷たい目。


「さっきからつぐみさん、空気空気って言ってますけど、空気ってそんなに大事なんですか」


「……何を言ってるの、菜乃花」


「つぐみさん。その場の空気を壊しちゃいけない、それは分かります。私もそこまで子供じゃありません。でもね、自分の気持ちを殺してまでして、守らないといけないものなんですか」


「菜乃花……」


「私は直希さんのことが好きです。つぐみさんにも、ずっと言ってきました。確かに一度振られちゃいましたけど、でも、それでも私は、直希さんへの気持ちが何一つとして変わらなかった。あの人と一緒に生きていきたい、あの人の隣に立っていたい、そう思ってました」


「それは分かる、分かってる。私が言いたいのはそうじゃなくて」


「でも!でもあの時、私感じたんです、今言わないといけないって!そうじゃないと私は、二度と直希さんに言えないって!」


 菜乃花が涙を浮かべて叫ぶ。


「それでもよ!そうだとしてもよ!なら少し時間をおいて、後で告白することも出来たじゃない!」


「そんなことを言ってられないぐらい、直希さんとあおいさんの間には何かが生まれてたんです!空気空気空気!いつもいつも私は読んできました。その結果が今の私なんです!何も手に入れられなかった私なんです!」


「いい加減になさい!どうしちゃったのよ菜乃花、あなたはそんな子じゃないはずよ。いつも優しくて穏やかで、みんなの笑顔の為に人知れず頑張ってきた。そんなあなたが、どうして全てを台無しにするようなことを」


「そうやって勝手に私のこと、決めつけないでください!」


 興奮のあまり、肩で息をしながらつぐみを見据える。


「ふっ……ふふっ」


「……菜乃花?」


「そうなんですね……私、分かっちゃいました」


 そう言って菜乃花が顔を上げる。


 頬に流れる涙を拭おうともせず、唇を歪ませてつぐみを見る。


「私がつぐみさんの気持ちを言ったものだから、怒ってるんですね」


「……」


「さっきから入居者さんだ、あおいさんだ、空気空気って……あはははっ、立派な言葉を並べてますけど、そうじゃないんでしょ?つぐみさんが怒ってるのは、自分の気持ちを直希さんに知られてしまった、それも自分からじゃなく、私の口から言われてしまった、みんなの前で……だから怒ってるんでしょ」


「菜乃花、あなた……いい加減に」


 言葉が終わらない内に、菜乃花がつぐみの頬を思いきり張った。


「ふざけないで!いっつもいっつも格好ばかりつけて、自分のことは棚上げにしてる癖に!言ってみなさいよ、直希さんのことが好きだって!」


 頬が熱かった。その後で痛みがじんじんと伝わってきた。

 しかしつぐみは、頬の痛みよりも菜乃花に張られた、そのことにショックを受けていた。


「それとも、ふふっ……須藤先生、でしたよね。つぐみさんのお兄ちゃん。あの人と最近いい感じだから、直希さんのことはもういいんですか?直希さんを誰かに取られたとしても、お兄ちゃんがいるから大丈夫、そんな風に思ってるんですか」


 その言葉につぐみは目を見開き、気付いた時には菜乃花の頬を張っていた。


「あはははははっ」


 張られた菜乃花が、涙を流しながら笑う。


「図星を突かれたから動揺してるんですか?どうなんですかつぐみさん!」


 そう言って、再びつぐみの頬を張る。

 つぐみもいつの間にか泣いていた。泣きながら菜乃花の頬を張っていた。


「よくも……よくもそんなことを!」


 二人が叫びながら頬を張り合う。


 大声に驚き、駆け付けた直希たちが止めるまで、二人は互いの頬を張り続けた。

 泣きながら。そして、笑いながら。



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