第20章 新たな一歩
第165話 元老会議
「お邪魔しますよ」
扉がノックされ、あおい荘の入居者たちが病室へと入ってきた。
文江は恐縮して頭を下げ、山下や小山と会釈する。
「おお、やっと来ましたか。さあさあ、むさ苦しい所ですが入ってください」
栄太郎が起き上がり、いつになく上機嫌な様子で皆を歓迎する。
「いやあ、ここでの生活にもそろそろ飽きが来てましてな。娑婆の空気に触れたいと思っていたんですよ。おっ、東海林さんも来てくれましたな」
そう言って、一番最後に入ってきた東海林医院の院長、東海林に声をかける。
「新藤さん、調子の方はどうですかな」
「ご覧の通り、ぴんぴんしてますよ。つぐみちゃんのおかげでね」
「はっはっは、それはよかった」
文江の用意した丸椅子に、各々が腰を下ろす。
栄太郎のベッドを囲み、あおい荘の全入居者が揃った。
「では……ただいまより、第一回あおい荘、元老会議を行います」
あおいが戻って来たあの日。
突然の菜乃花の告白は、祝福モードに包まれていたあおい荘の空気を一変させた。
「ちょ……ちょっとちょっとなのっち、突然どうしたのよ」
明日香が引きつった笑顔を菜乃花に向ける。
「突然じゃありません。私はずっと、直希さんのことが好きでした」
「分かってる、分かってるよそれは。そうじゃなくてね、何て言うか……それって今、ここで言うことじゃないと思うんだ」
「私は一度、直希さんに告白してます。その時はその、断られてしまったんですが……でも私、昨日直希さんに言いました。あおい荘に戻ってきたら、もう一度告白しますって」
「菜乃花、ちょっと落ち着きなさい。何があってあなたが今、直希に告白したのかは分からない。でもね、明日香さんの言う通りよ。あおいが大変な思いをして、やっとここに戻って来た。それなのに……ううん、違うわ。今、そういうことを伝える時じゃないと思うの」
「じゃあ、いつならよかったんですか?あおいさんのこと、私も心配でした。もう二度と会えないかもしれない、そう思って昨日、ほとんど眠れなかった。そのあおいさんが戻って来てくれて、本当に嬉しいです。
でも、でも……直希さん、あおいさんと昨日、何があったんですか」
「え……いや、別に何も」
「嘘です!だって直希さんとあおいさん、昨日と全然雰囲気が違います!二人の間には、誰も入り込めない空気が出来てます!」
「だ……だからね、なのっち。ちょっとだけ落ち着こうか。あんた今、混乱してやけになってる。そりゃまあ、あんたが今言った空気、あたしも感じてなかった訳じゃないよ。でもね、それでもね、今言うことじゃないと思うんだ」
「私だって子供じゃありません!こんなことを今言うなんて、空気が読めてないにも程があるって分かってます!でも、それでも……そうやって空気を読んでる内に、みんなどんどん先に進んでいきます!私が遠慮している間に、みんな遠くに行ってしまいます!もうそういうのは嫌なんです!直希さんが今より遠くに行ってしまうのが嫌なんです!」
「菜乃花ちゃん……」
「明日香さんだってそうじゃないんですか?直希さんにプロポーズまでしておきながら、ちゃんとした答えも貰えないまま、いつの間にか今のポジションに収まってしまって。
今の関係が心地いいのは分かります。自分さえ抑えていれば、誰も傷つかない。空気を壊すことはない。でもそうやっている内に……明日香さん、脱落しちゃってるじゃないですか!」
「いい加減になさい!」
たまらずつぐみが声を上げた。
「菜乃花あなた、今の空気を壊すだけじゃなくて、明日香さんのことまでそんな風に……何を考えてるのよ!」
「いいんだよ、つぐみん。なのっちが言ってること、間違ってる訳でもないんだから」
「でも」
「確かにあたしは、ここで過ごす時間が好きなんだ。ダーリンに抱き着いて、いつも軽口叩いてさ。そりゃね、あたしだって、ダーリンと結ばれたら嬉しいよ。幸せ過ぎてどうにかなっちゃうかもしれない。でも、それでも……自分の気持ちを殺してでも、今のこの幸せを守りたい、そんな風に思ってたんだ」
「明日香さん……」
「でもね、あたしだってダーリンのこと、諦めた訳じゃない。いつかきっとダーリンの心、つかんでやるって思ってる。
だけどね、なのっち。あんた、一つ間違ってるよ。ダーリンはね、あおい荘があるからダーリンなんだ。ダーリンにとっては、あおい荘が全てなんだ。そのあおい荘の空気を壊してまでして、自分の気持ちを伝える。それは間違ってる。あんた今、大変なミスをしてるんだよ」
「……かもしれません。私だって、ここでの生活が居心地よくて、出来ればこのままずっと、ここにいたいって思ってました。でもそれは、直希さんがいればこそなんです。直希さんが私だけを見てくれている、私のことを愛してくれる、そんな未来を望んでいるからこそなんです。
その直希さんが、私じゃなくて、あおいさんを見ている……そんなの嫌なんです、耐えられないんです。私は例え、今ある全てを失ってでも、直希さんの心をつかみたいんです!」
「菜乃花……」
「つぐみさんだって、そうじゃないんですか?いつもいつも、直希さんはただの幼馴染、そう言って私たちをはぐらかしてますけど、いつも直希さんの理解者なんだって顔をして、直希さんの傍に寄り添って。それなのに、突然現れたあおいさんに取られちゃっていいんですか!つぐみさんだって直希さんのこと、ずっと好きだったんでしょ!」
「菜乃花!」
菜乃花の言葉に、つぐみが声を荒げて叫んだ。
胸の奥にしまっていた、大切な想い。それを全員が見ている前で晒されてしまった。直希に知られてしまった。
慌てて振り返ると、直希も呆然とした顔でつぐみを見ていた。
「みんなおかしいんです!どうしてもっと、素直になれないんですか!空気空気空気、どうして空気ばっかり読まなくちゃいけないんですか!そうしている内に、自分にとって一番大切にしている気持ちまで失って……私はそんなの、もう嫌なんです!
直希さん、私はあなたのことが好きです。だから、だから私をもっと見てください!私に触れてください、私を好きになってください!」
そう言って、菜乃花はその場から走り去っていった。
「あの日の菜乃花ちゃんは本当、すごかったわね」
文江の出したお茶を飲みながら、山下が笑顔でそう言った。
「ある意味羨ましい、そんな所ですかな、山下さんや」
「西村さん、ちょっと黙っててくれませんか。あなたがそう言って絡んでくると、話が進まなくなるんです」
「ほっほっほ、山下さんは厳しいのぉ」
「まあでも……確かに羨ましいかも、ですね……私だって昔は、昨日の菜乃花ちゃんよりもっと激しい恋をしてました。両親に反対されて、それでも祐太郎さんのことが好きで……結局私は、祐太郎さんの為に何もかも捨てた。
でもあの時、本当に幸せだった。体中が震えました。全て失ってもいい、そんな人に出会えたことが嬉しかった。あんな気持ちになったのは、人生であの一度きり。もう一度、あの時のような気持を味わいたい……そんな風に思うこと、確かにあると思います。あの時ほど、自分が生きてるんだ、そんな風に思えたことはなかったですから。
でも私は、ご覧の通りのおばあちゃん。いくら望んでもそんなこと、出来ないんですよ」
「あ、いや……山下さんは今でも、若く美しい女性だと思ってますよ」
「あらあら、生田さんにそんなことを言ってもらえるなんて、うふふふっ、ありがとうございます」
「いや、その……すみません、
「生田さん、少しお顔が赤いですわよ」
「小山さん……くたびれた老人をからかわないで欲しいのだが」
「くたびれてなんかないさね。何といってもあんたには、若い者に負けない求道心がある。人間、それがある内は輝いてるさね」
「節子先生まで……あ、いやその、ありがとうございます」
節子の言葉に恐縮し、赤面する生田。
病室が穏やかな笑い声に包まれた。
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