第164話 ただいまです
駅に着いた直希とあおいは、肩を並べて住み慣れた街を歩いていた。
あおいは感慨深い表情を浮かべ、時折吹く潮風を胸いっぱいに吸い込んで笑った。
「この街は……本当に優しい街ですね」
「あおいちゃん?」
「風見家を飛び出した私は、どうやってこの街にたどり着いたのか覚えていませんです。財布にはカードばかりで、現金は僅かしかありませんでした。カードを使えば家にばれてしまいますので、使うことも出来ず……途方に暮れながら歩いてましたです。でも……この潮の匂いだけはよく覚えてますです」
「あおいちゃんの実家は山奥だから、潮の匂いは新鮮だったのかもしれないね」
「お金もなくなってしまい、喉も乾いて、お腹も空いて……倒れてしまいましたです。あおい荘の前で」
「あの時は本当、びっくりしたよ」
「私もです。見ず知らずの私を警戒することもなく、中に入れてくださって……私の言うことを全て信じてくれて、警察にも連絡せずにいてくれましたです。そして私に住む場所と、生きる意味を与えてくれた……それが直希さんなんです」
「照れくさいね。あの時は正直、深く考えてなかったから」
「でも直希さんは、自分が信じる人しかスタッフにしないと言ってましたです」
「ああ、確かに……そんなこと言ったことがあるかもね」
「直希さんの理想に賛同してくれる人、その人に出会うまでは一人であおい荘を守るんだ、そうつぐみさんに言ってたと聞きましたです」
「ははっ、知ってたんだ」
「直希さん、どうしてあの時、私を雇おうと思ったのですか?初めて会った、家出した身元不明の私を」
「それは……難しい質問だね。正直俺も、分かってないから」
「そうなん……ですか?」
「うん……あの時はとにかく、あおいちゃんのことを助けたいと思ったんだ。お金もなくて、ここがどこなのかもよく分かっていない。そんな子を、また一人で外に出す。そんな選択肢はなかったんだ」
「それならしばらく、仮住まいさせるだけでもよかったと思います。でも直希さんはあの時、ここで一緒に働かないかと言ってくれましたです」
「しおりさんにも言ったんだけど、直感だったと思うんだ」
「直感……」
「うん、直感。なんでだろう、あおいちゃんの顔を見てたら、話を聞いてたら……この子と一緒に働いてみたい、この子ならきっと、俺が見ている景色を一緒に見てくれる、そんな気がしたんだ……なんだよそれ、って突っ込みたくなるけどね、自分のことながら」
そう言った直希の笑顔に、あおいは恥ずかしそうにうつむいた。そして嬉しそうに微笑んだ。
「そうですか……直感、だったんですね」
あおい荘の屋根が見えて来た辺りで、あおいが立ち止まった。
「あおいちゃん?」
「あ、いえ、これはその……」
「……ちょっと気恥ずかしい?それとも気まずいのかな」
「は、はいです……両方、です……」
そう言ってうつむくあおいを見て、直希は小さく笑った。
「あおいちゃん、ほら。行くよ」
直希があおいの手を握る。その温もりに、あおいが赤面して顔を上げた。
「ここはあおいちゃんの家なんだよ。みんな待ってる。だから……みんなに言ってね、『ただいま』って」
「直希さん……はいです、分かりましたです!」
そう言って直希の手を握り返し、あおいが笑った。
「あー、パパとあおいだー」
「ほんとだー。ママー、パパが帰ってきたー」
みぞれとしずくの声に、皆の視線が正門に向かう。
そこには笑顔で手を振る直希と、恥ずかしそうにうつむくあおいの姿があった。
「ははっ……みんな、待っててくれたんだ」
「あ、あの、みなさん……」
ただいまです、そう言おうとしたあおいだったが、猛スピードで走ってきた明日香によって言葉は遮られた。
明日香は力の限りあおいを抱き締め、「アオちゃん、アオちゃん」そう言って泣いた。
「明日香さん……ただいま帰りましたです」
そう言って頭を撫でると、明日香は人目もはばからずに声をあげて泣いた。
「ごめんね……ごめんね、アオちゃん」
「明日香さんが謝ることなんて、何もありませんですよ。私は明日香さんに、今までもたくさん励ましてもらいましたです。守ってもらいましたです。今回だって、明日香さんの励ましがなかったら、私はきっと挫けていたと思いますです」
「アオちゃん……」
「あおいちゃん、おかえりなさい」
「あ、あおいくん……よく戻って来たね。疲れただろう」
「山下さん、生田さん……西村さん、小山さん……この度は本当に、ご迷惑をおかけしましたです。風見あおい、ただいま戻りましたです」
西村が、涙と涎を流しながらうなずく。小山もあおいの手を握り、優しく撫でる。
入居者たちの出迎えに、あおいは頬を染め、照れくさそうに笑った。
「やっと……やっと戻ってこれました!私はこれからも、ここで生きていきますです!」
あおいの言葉に、生田が目を潤ませてうなずいた。山下に肩を抱かれた明日香も、嬉しそうに笑った。
「あおい、おかえりなさい」
「つぐみさん……ただいまです」
つぐみに抱きしめられると、あおいは感極まって涙を流した。
「何よ、あおいったら……いつになく甘えたさんモードね」
「いえ、その……つぐみさん、ありがとうございましたです。これまでつぐみさんに教えていただいたこと、それがなかったら私は……ここに戻ってこれなかったかもしれませんです」
「そうなの?よく分からないけど、もしそうなんだとしたら、それはあおいが真剣に向き合ってきたからだと思うわよ」
「つぐみさん……」
「詳しい話は落ち着いてからね。とにかく中に入って、ゆっくり休みなさい。疲れたでしょう」
「あおい荘に戻って来れた、それだけで私は元気になりましたです。疲れもなくなりましたです」
「ふふっ、そう言ってくれて嬉しいわ」
つぐみと抱擁を交わし、あおいが幸せそうに笑った。
「菜乃花、菜乃花もこっちにいらっしゃい」
「菜乃花さん、ただいまです」
そう言ってあおいが菜乃花に手を振る。
あおいの周りに集まったあおい荘のみんな。
一番に飛び出した明日香も、みぞれやしずくと共に笑っている。
入居者たちもあおいを囲み、みんな笑っていた。
そんなあおいを見つめる直希。その腕には相変わらず、節子がしがみついて笑っていた。
つぐみとあおいが、手を振って菜乃花を呼んでいる。
「……」
菜乃花の目は直希を向いていた。
誰も気付いてないのだろうか。
直希とあおいの間に、昨日まではなかった何かが生まれていることを。
でも今は……そんなことどうでもいい。
あおいが帰って来てくれた。
ひょっとしたら、もう二度と会えないのかもしれない……昨夜、そんな不安な気持ちに心が潰れそうになっていた。
だから今は、あおいが戻って来たことを喜ぼう。
そう思っているはずなのに。
そう思っていたはずなのに。
さっき、みぞれとしずくが二人を見つけた時、見てしまった。
二人が手を握り合っていたのを。
そして二人が同時に、慌てて手を離したことを。
その時に見せた二人の表情に、菜乃花は何かが壊れていくのを感じた。
みんな笑っている。
あおいを囲み、口々に声をかけている。
しかし菜乃花には、何も聞こえなくなっていた。
耳がキーンとして痛い。
誰も、何も見えなくなっていった。
見えるのは直希だけ。でもその直希が、昨日よりも遠くに感じる。
「駄目……もう駄目だ、私……」
菜乃花がゆっくりと歩いて行く。
あおいではなく、直希の元に。
「……直希……さん……」
「菜乃花ちゃん、ただいま。お弁当ありがとうね、おいしかったよ」
そう言って笑う直希。その笑顔に自然と涙が溢れて来た。
「菜乃花……ちゃん?」
「菜乃花?」
自然と皆の視線が菜乃花に向けられる。
菜乃花が小さく息を吐くと、直希に向かって叫んだ。
「直希さん……あなたのことが好きです!私と……私と付き合ってください!」
あおい荘に、菜乃花の声が響き渡った。
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