第161話 止まらない想い


「直希さん、直希さん」


 テーブルに顔を埋めて眠っている直希に、あおいが何度も声をかける。

 肩に手をやり揺さぶるが、直希は反応しない。


「……」


 涙の跡が残った寝顔はとても穏やかで、憑き物が取れた子供の様だった。

 その寝顔に微笑みながら、あおいは思った。

 直希は今日まで、自分では想像も出来ない荷物を背負いながら生きて来た。


 親殺し、妹殺しの十字架。


 彼はその十字架を背負いながら、たった一人で贖罪の為に戦って来た。

 彼に対して感じていた、自虐的ともいえる人々への献身。その理由がようやく分かり、そんな彼の為に、自分も役に立ちたい、そう思った。

 栄太郎の病気、風見家の問題。

 いや、遡ってみればそれだけではない。

 節子の問題や菜乃花のいじめなど、これまであおい荘で繰り広げられてきた数々の騒動。

 彼はその問題、一つ一つに真摯に向き合って、走り続けて来た。

 それがどれほど過酷な日々だったか。ちっぽけな存在である自分には想像もつかない。

 しかし今、自分の前で眠っている直希を見て、あおいは思った。




 直希さん、少しはお役に立てたでしょうか。

 今の直希さん、本当にかわいい寝顔をしてますよ。




 考えてみれば、自分の中でも直希に対する見方が変わっていた。

 これまで自分は直希のことを、人生の指標を示してくれる、尊敬できる人だと思っていた。

 道に迷った時、勇気が出ない時。そんな時、直希の言葉を待っていた。

 直希がいれば大丈夫。直希の言葉通りにすれば間違いない、そう思っていた。

 そんな彼に、いつからか芽生えていた想い。

 それは憧れでもあった。

 それは人生の師に対する思いと似ていた。

 そんな彼に自分は恋をした。


 しかし今、自分の前で泣きじゃくり、心の闇を吐きだした直希は、これまで自分が知っている直希とはまるで違って見えた。

 その姿は、決して美しい物とは言えないのかもしれない。

 人によっては、無様な姿に見えるのかもしれない。

 しかしあおいは、そんな直希を見て、自分の想いが更に強くなったのを感じていた。

 これまで自分の中で、勝手に作り上げていた直希像。

 穏やかに笑い、どんなことがあっても動じず、冷静沈着でことに当たる頼れる人。

 ある意味そうプログラムされたロボットのように思えるほど、完璧だった存在。

 しかしそんな直希にも、こんな人間らしいところがあった。

 自分で答えが出せずに迷い、狼狽し、感情のままに泣いた直希。

 そんな直希を知れたことが嬉しかった。

 そして……自分の中で、直希への想いが更に燃え上がるのを感じた。





「直希……さん……」


 憂いに満ちた瞳で直希をみつめ、恐る恐る髪に指を通す。


「……」


 あおいの仕草に、直希が微笑んだように見えた。


「直希さん、私は今日、やっとあなたの本当を見れたような気がします。そして……それが嬉しいのです」


 耳元で優しく囁く。


「今日は……いえ、違いますね……今まで本当に、お疲れ様でしたです……どうか今夜は、ゆっくりと休んでくださいです」


 そう言って直希の腕を肩に回し、立たせようとした。


「直希さん、こんなところで寝ていたら、風邪をひいてしまいますです。お布団まで行きましょうです」


 あおいの囁きに、直希が無意識でうなずくのが分かった。

 その無防備な顔に微笑み、体を支えると直希が立ち上がった。


「お布団はすぐそこです。直希さん、少しだけ頑張ってくださいです」


 ゆっくりと、慎重に歩いて行く。しかし眠っている直希は思っていた以上に重く、あおいは苦笑した。


「やっぱり……直希さんは男の子です。とても大きいです」


 何度か休憩を挟みながら布団の前にたどり着くと、その場で慎重に跪き、直希を寝かせようとした。


「ひゃっ……」


 バランスを崩したあおいが、直希と一緒に布団の上に崩れた。

 直希の上に倒れたあおい。両腕があおいの体に回っていて、抱きしめられているような格好になった。


「直希さん、大丈夫でしたですか」


 そう言って顔を上げたあおい。目の前には直希の寝顔があった。




 ――これまでで一番、直希を近くに感じる。




「直希……さん……」


 頬を染めたあおい。全身が燃えるように熱くなっていた。

 震える指で直希の唇に触れる。その仕草に反応した直希が、あおいを更に力強く抱き締めた。


「……」


 直希の鼓動を感じる。そして自分の鼓動も、直希に伝わっていくのが分かった。

 直希を見つめるあおいの瞳に、涙が溢れて来た。




 なぜなんだろう。どうしてなんだろう。

 どうして私は今、泣いているんだろう。




 そんな思いが脳裏をよぎる。

 直希のぬくもりを感じ、鼓動を感じる。

 直希の熱い吐息を感じる。

 あおいは直希を求めていた。

 自分でもよく分からなかった。

 こんなこと、してはいけないことだと思った。

 口づけは、お互いが求め合ってする物。

 私もいつか、王子様に出会った時、交わすことになるのだろうか。

 そう思っていた、憧れのファーストキス。

 でもそれは、きっと今ではない。

 想いは告げた。

 しかしまだ、答えをもらっていない。

 頭ではそう理解していた。だからこれは、許されることじゃない。

 でも体が、止まってくれなかった。

 頭と心が違うことをしている。その初めての感覚に戸惑った。

 しかし止まらなかった。




 直希さん。

 愛しています。




 あおいの唇が直希の唇にそっと触れる。

 直希のぬくもりが伝わってくる。


 唇が重なった瞬間、あおいは雷にでも打たれたような感覚を覚えた。

 全身が痺れ、何も考えることが出来なくなった。


 もっと触れ合いたい。

 もっと感じていたい。


 あおいは直希を求めた。

 直希を抱き締める。唇を求める。

 あおいの仕草に直希も反応し、あおいを抱く手に力が込められた。


「直希さん……好きです、大好きです……私は……風見あおいは直希さんのことを、愛していますです……」


 涙を流し、唇を重ねたままあおいがそう囁く。

 自分はこの瞬間の為に生まれてきたんだ。

 そう思えるほど、幸せを感じていた。


「はぁ……はぁ……」


 息が続かなくなったあおいが唇を離し、直希の頬に手をやった。

 愛おしそうに直希を見つめる。

 その時。

 真っ白になっていたあおいの脳裏に、彼女たちの顔が浮かんだ。




 東海林つぐみ。

 小山菜乃花。

 不知火明日香。




「……ごめんなさいです、つぐみさん、菜乃花さん、明日香さん……私……皆さんの気持ちを分かっている筈だったのに……でも……でも、私は……」


 そう言ってもう一度、唇を重ねた。






「直希さん……どうかゆっくり休んで下さいです」


 掛け布団をかけ、優しく頭を撫でる。


「おやすみなさいです、直希さん」


 電気を消してそう言うと、あおいは部屋を後にした。



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