第157話 密談


「あおいにだけは見られたくなかったわ。さっきの姿」


施設を出て、風見家の運営する旅館に向かう車の中で、しおりが大袈裟にため息をついた。


「そんなそんなです。私は先ほどの姉様を見て、ますます姉様のことを尊敬しましたです」


「尊敬、ね……照れくさいけど、まあいいわ」


そう言って煙草に火をつけると、あおいが顔を覗き込んで来た。


「……何かしら」


「姉様、私は姉様に長生きしてほしいです。やめてほしいとまでは言いませんが、どうか煙草の本数、控えてくださいです」


「分かった、分かりましたから、そんなに顔を近付けないで」


頬を染めて動揺するしおりを見て、あおいが笑った。


「それであおい。あなたはこれからどうするのかしら」


「これからと言いますと」


「新藤直希と共に戻り、あおい荘での生活を続ける。それは聞きました。私が許可します」


「ありがとうございますです」


「私が聞きたいのは、その後のことよ」


「その後……ですか」


「ええ。あなたはあおい荘でヘルパーとして、新藤直希の理想の為に頑張る。それから先のことについては、どう思ってるのかってこと」


「……よく分かりませんです。姉様、あおいに何を聞きたいのでしょうか」


「ああもう!この鈍感娘は!」


煙草を灰皿に放り投げると、あおいの頬を両手で押さえた。


「ね……ねえしゃま?」


「いいわ分かった、はっきり言います。あなたは新藤直希のことを、どう思ってるの?」


「……直希しゃんのことですか」


「ええそう、新藤直希のこと」


「直希しゃんは……私にとって、姉しゃまと同じくらい尊敬してる人でしゅ」


「そうじゃなくて!男としてどう思ってるのかってことよ!」


そう言って両手で頬を叩く。


「痛い……痛いです、姉様」


「全く……どこまで鈍感なのかしら、この子は……あなたがあの男の話をする時の目には、確かに尊敬の念が込められてました。でもそれだけじゃない。明らかにあなたは、あの男のことを違う意味でも慕っている」


「……」


意図がつかめなくて、しおりの言葉を頭の中で何度か再生する。そしてしばらくして、言葉の意味を理解したあおいが、真っ赤になって両手で顔を隠した。


「ね、姉様!違いますですそんな……私は直希さんのことを、そんな風に考えてはいけないのです。私は大恩ある直希さんの為に、これからも精一杯働きたいと思ってる、それだけなんです」


ここまで分かりやすい反応をするとは……そう思い、しおりが意地悪そうに笑みを漏らした。


「あおい、どうして顔を隠すのかしら。何をそんなに動揺してるのかしら」


「動揺なんてしてませんです。そんなこと、考えてなんかいませんです」


「全く……この子は」


あおいを抱き寄せて頭を撫でる。


「初恋なんでしょ、あなたにとって」


「……」


「あなたは今まで、風見家で大切に育てられてきた。それに大学までお嬢様学校。これまで男というものを知らずに生きて来た。

そんなことを考える必要はない、お前にはいつか、私がいい婿を見つけてやる。親父様に言われた言葉をそのまま受け入れてきた。でもね、もしあなたがあの縁談を嫌って家を出なかったなら、私が乗り込んでぶち壊すつもりだった」


「姉様」


「あなたは私の大切な宝物。それをあんなクズみたいな男にくれてやるなんて、考えただけでも虫唾が走ったわ。だからね、あおい。よく決意しました。よく行動を起こしました。私はあなたが家を出たと聞いて、心からそう思ったんだから」


「……」


「あなたにふさわしい男が見つかるまでは、どれだけ力を持った男が現れようと、認めるつもりはなかった。もし見つからなかったら、あなたを森園家で引き取ろうとさえ思ってた」


「姉様、それは少し違うような」


「でもね、あおい。新藤直希にならあなたのこと、任せてもいいと思いました」


「姉様にそこまで言わせるなんて……流石直希さんです」


「あの男……確かに理想まみれだし、甘いところもたくさんある。でもね、あの男には私たちよりも強い、ぶれない軸がある。どうしてあんな強い信念を持っているのか、それは分からないけど……彼はいつかきっと、私たちと同じステージにまで上ってくる。そう思ったわ」


「ありがとうございますです、姉様」


「それに……あなたのことを本当に大切に思っている。後で聞いたんですけど、今彼、おじいさんが大変なことになってるのよね」


「……はいです。栄太郎さん、心筋梗塞で入院していて」


「それだけじゃないわ。入院中にその人、認知の症状が出て来たみたいで」


「え……」


しおりの言葉に、あおいは目の前が真っ暗になった気がした。

そんなあおいを見て、しおりは優しく微笑み、頭を撫でた。


「大変な時にこんなことをしてしまった……新藤直希には悪いことをしたと思ってるわ。

でもね、あおい。安心していいわよ。その方、認知の症状が出たのは一時的だったみたい。今は元に戻ってるようだから」


「本当ですか、姉様」


「ええ。新藤直希がそう言ってたから。間違いないと思うわ」


「よかったです……」


そう言って、あおいが濡れた瞳を指で拭った。


「彼に謝ったわ。そんな大変な時に、問答無用な選択をさせてしまって……でもね、あおい。彼にとってあなたは、それぐらい大切なのよ」


「直希さんが、私のことを」


「ええ、そう。唯一の身内である祖父を残して、あの男はあなたの元へ来た。それがどういうことかぐらい、分かるでしょ」


「直希さん……嬉しいです、恥ずかしいです」


身をよじらせるあおいを見て、しおりは抱き締め、顔中にキスしたい衝動に襲われた。


「でも……姉様、それが直希さんなんです。例え私でなかったとしても、直希さんはきっと同じことをされてたと思いますです。直希さんが私のことをそういう風に想ってるなんてことは、ないと思いますです」


「あなたはどうなの、あおい」


「私……私は……」


「確かに、新藤直希はそういう男なのかもしれない。それは分かる気がします。でもあおい、あなた自身は新藤直希のこと、どう思ってるのかしら。やっぱりただの恩人なの?今のあなたの反応を見てると、それだけだと言われても嘘くさいんだけど」


「私は……はいです、姉様。確かに私は直希さんのことが大好きです。出会った時からずっと、私にとって本当に大切な方でした。優しくて温かくて……迷ってる私にいつも道を示してくれる、素晴らしい人だと思ってましたです。でも……」


「でも、何かしら」


「私の様な家出娘が、直希さんの事をそんな風に想うのは間違ってる、ずっとそう思ってましたです。それに直希さんの周りには、私よりもっと素晴らしい人がいてますです」


「でも、今のあなたは家出少女じゃない。風見家、そして私が認めた、立派に自立した一人の女です」


「ですが」


「あおい、もっと正直になりなさい。あなたは彼のことを愛している。それは、誰よりあなたのことを見て来た私だから分かる。あなたは彼のことを愛している」


「でも……」


「自信がない?」


「……はいです。私にそんな資格があるとは、とても思えなくて」


「あおい、恋に資格なんてないのよ。あるのは決意と情熱だけ。あなたが彼を想うのなら、どんな手段を使ってでも応援してあげます。と言うかあおい、あなたはあの男を逃がしちゃ駄目」


「姉様、またちょっと怖くなりましたです」


「何言ってるの。恋はね、戦いなのよ。あなたが今言った他の女たち。彼女たちがどんな人か私は知らない。でもね、あなたのことなら誰よりも分かってる。あおい、あなたは決して彼女たちに後れを取るような女じゃない。負けるはずがない」


「姉様……」


「新藤直希、今夜旅館に泊めることになってます。あおい、あなたは今夜、新藤直希を射止めなさい」


「姉様……えええええええっ!」


「今夜が勝負ですよ、あおい。今夜だけは、あなたが言った他の女たちもいません。あなたと新藤直希の二人だけ。私がここまでお膳立てしてあげたんです。無駄にするんじゃありませんよ」


「姉様、そんなことを言われましても……心の準備が」


「心の準備なんて必要ないの。必要なのはあなたの想い、それだけよ。新藤直希にも、色々とあることは承知してます。それが何かまでは分かりませんが、それでもあおい、天の利地の利を生かして、新藤直希を見事落としてみせなさい」


しおりの熱い言葉に、あおいがうつむいた。

頭の中で直希のこと、つぐみたちのこと、そしてしおりの言葉を何度も巡らせる。

そしてやがて顔を上げると、しおりの目を真っ直ぐに見つめた。


「……分かりましたです、姉様。直希さんに届くかどうかは分かりません。ですが風見あおい、直希さんに自分の想いをぶつけてみますです」


その言葉に満足そうに微笑み、しおりが大きくうなずいた。


「頑張りなさい、あおい。大丈夫、私がついてるわ」


そう言ってあおいを優しく抱き締めた。



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