第19章 贖罪の先に

第155話 温泉宿に一人


 風見家が経営する旅館の一室。

 そこは、直希が知る旅館とはまるで違っていた。

 豪華だが品のある趣の和室。

 仲居が部屋の説明を済ませ、


「まずは温泉で旅の疲れを癒してください」


 そう言って部屋から出ると、直希は落ち着かない様子で座椅子に座り、煙草に火をつけた。


「……って、ここ禁煙じゃないよな」


 火をつけてから慌ててそうつぶやく。テーブルに灰皿を見つけてほっとすると、背もたれにもたれかかって白い息を吐いた。


「なんだか……怒涛の一日だったな……」


 目を瞑ると、今日一日のことが思い起こされた。

 栄太郎に認知の症状が出たこと。つぐみに慰められ、励まされたこと。あおいが家に連れ戻され、パニックになってつぐみに頬を張られたこと。


「ははっ……」


 笑いながら頬に手をやる。

 明日香からの謝罪の電話、菜乃花が弁当をくれて、戻ってきたらもう一度告白します、そう言って抱きしめられたこと。

 雪の降るあおいの故郷に足を踏み入れ、あおいの姉、しおりと話し合ったこと。


「……一日で処理出来る量じゃないぞ、これは……」


 そう言って苦笑する。

 煙草を揉み消して窓の外に目をやると、見事な露天風呂が広がっていた。


「この部屋……一泊何十万するんだか」


 しかし折角のご好意だ。受け取らないと失礼に当たると思い、露天風呂に向かった。


「見事だな……」


 粉雪に身を震わせながら温泉に入ると、疲れが一気に押し寄せてくるような感覚を覚えた。目を閉じていると、そのまま眠ってしまいそうだった。


「……」


 外に目を向けると、あおいの街が一望出来た。

 しんしんと雪が降り積もる街は静かで、別の世界にでも飛ばされたような気がした。


「いい街だな、ここは……ここであおいちゃんは生まれ、育ったんだ……」


 あおいのことを思うと、今すぐにでも会いたい衝動に襲われた。

 きっと心細い思いをした筈だ。絶望した筈だ。


 やっとつかんだ自由。

 自分が自分らしくいられる場所、あおい荘に出会った彼女。


 あおいはこの半年、懸命に生きようとしていた。生まれ変わろうとしていた。

 これまで籠の中の鳥だった彼女が、自分の意思で大空に羽ばたこうとしていた。

 そんな彼女に自分も、そしてみんなもたくさん勇気をもらった。笑顔をもらった。

 次は自分たちの番だ。

 あおいの笑顔を守る為、全力で支えていきたい、そう思った。





「いい湯だったな。でも……いい湯すぎてもう動けないぞ」


 風呂からあがり、座椅子に腰を下ろした直希が、冷蔵庫から取り出したビールを口にしてそうつぶやいた。

 体中にアルコールが染み渡り、爽快感と共に疲労感が広がった。


「駄目だ……久しぶりの酒ってのもあるけど、これはもう動けないぞ」


 あおい荘を立ち上げてから、毎日が緊張の連続だった。心が休まることのなかった日々。それがどれだけ過酷だったかを、業務から解放されたこのひと時が教えてくれているようだった。

 煙草に火をつけて煙を吐くと、体が更に鉛のように重く感じた。


「体に悪いんだから、早くやめなさい」


 つぐみの顔が浮かび、苦笑した。


 今回の一件で、つぐみには本当に助けられた。

 彼女がいなければ、自分はあおいを追ってここまで来れていなかったかもしれない。

 つぐみがいたからこそ、彼女に栄太郎とあおい荘のことを任せて、ここに来ることが出来た。

 あおいのことだけを考えることが出来た。

 そう思うと、つぐみへの感謝の念が強く現れて来た。


「ほんと……あいつには世話になってばかりだな……」


 自分はつぐみの好意に甘えている。昔からそうだった。

 彼女はいつも、道に迷い立ち止まっている自分を支え、励ましてくれた。背中を押してくれた。

 彼女は自分のことを、いつも道を指し示してくれる人だと言った。

 でも違う。

 自分にとっては、つぐみこそがそうだった。

 彼女がいたからこそ、自分は今、こうして生きている。

 どんなことがあっても、勇気を振り絞ることが出来る。

 彼女がいなければ、きっと自分はあの場所にから動けないままだった。

 父と母、そして妹を殺してしまったあの場所から。


「……」


 煙草を揉み消し、電灯の周りを揺らめく煙を見つめる。


「直希。あなたは直人おじさんと静香おばさん、奏ちゃんのことがあって、自分には幸せになる資格がないって言った。でも、それがそもそも間違ってるのよ。あなたは三人の分まで幸せにならないといけないのよ」


 つぐみの言葉が思い出される。

 今日のことなのに、何だか随分昔に言われたような、変な感覚だった。

 そして思った。


 違う、そうじゃない。


 つぐみはこれまで、ずっと自分にそう言ってたんだ。

 だからあの言葉が、遠い昔に言われたような感覚になってるんだ。

 俺が心に壁を作って、その言葉を打ち消してきただけなんだ。

 つぐみはずっと、俺が幸せになることを願っていた。望んでいた。

 俺がどれだけそれを否定しても、あいつは諦めなかった。


 あおい荘がオープンした日。あいつは泣いていた。

 なんでお前が泣くんだよ、俺がそう言って笑うと、あいつは声をあげて泣いた。

 きっとあいつはあの時、俺が過去ではなく未来を見ていることが嬉しかったんだろう。

 あいつは……あいつは……

 誰よりも俺のことを見てくれて、そして俺のことを理解してくれた。俺のことを支えてくれた。


 そんな恩人である彼女の想いを、卒業式のあの日、自分は踏みにじってしまった。

 無残に。無慈悲に。

 なのに彼女はまだ、自分に寄り添い、力を与えてくれる。勇気を与えてくれる。

 栄太郎とあおいのこと、両方でパニックになった自分を励ましてくれた。

 泣いてくれた。笑ってくれた。





「失礼します」


 扉の向こうから仲居の声が聞こえ、直希の思考は中断された。


「はい、どうぞ」


 扉が開くと、仲居が数名、料理を手に中に入ってきた。

 旅の番組でしか見たことのないような、豪勢な料理が次々と運ばれてくる。


「あ、いや……流石にこの量、多すぎませんか」


 直希が苦笑してそう言うと、仲居たちは小さく笑いながら頭を下げ、部屋を後にした。


「まいったな……こんなにたくさんの料理、一人じゃ無理だぞ」


「ふふっ」


「え?」


 独り言をつぶやいたつもりだった直希が、笑い声に振り返った。


 そこには浴衣姿のあおいが、笑顔で座っていた。


「あおい……ちゃん……」


「こんばんはです、直希さん」



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