第154話 素顔
「安川さん、どちらに向かわれているのですか」
あおいの問いに、安川は足を止めて振り返った。
「あおいお嬢様は、しおり様のことをどのように思われているでしょうか」
「姉様のことをですか?」
突然の問いに、あおいが首を
「姉様は……私にとって、ずっと憧れの存在でした。子供の頃から勉強も一番、運動でも男子に引けを取らない成績でした。その上リーダーシップもあって、みなさんがよりよい学校生活を送れるようにと、生徒会長として率先して働かれてました。華道や茶道、日本舞踊やピアノにおいても才能豊かな方で、私にとっては雲の上の様な存在でした。
それなのに私に対しては、いつも優しく接して下さって、守ってくださってましたです。私にとって姉様は、何物にも代えることの出来ない、大切な存在です」
「しおり様の介護に対する考え方、それについてはいかがでしょうか」
「え……」
わだかまりとして残っている、自分の胸の内を覗かれたような気になり、あおいが思わず声を漏らした。
そんなあおいを見て微笑むと、安川が言葉を続けた。
「あおいお嬢様の中には、しおり様の介護論は冷徹すぎる、そういった思いがあるのではないかと思います」
「それは……」
「今回のプロジェクトは、ある意味しおり様にとっても長年の夢だったと伺っております。風見グループとの業務提携によって、その夢が現実に近付いたのは事実ですが、もしそれがなかったとしても、いずれしおり様は動かれていました」
「ですが……姉様の考えている介護は」
「冷徹、ですよね。あおいお嬢様のお顔を拝見していて、しおり様がそういったお話をされたと察することが出来ました」
「……」
「だからこそ、あおいお嬢様には見ていただきたいのです」
「何を、でしょうか。姉様がおっしゃるように、私はたった今、現実というものに触れたと思いますが」
「ええ。ですがそれだけでは足りないと思いました。今からあおいお嬢様にお見せするもの、それはしおり様のご意志ではありません。私があおいお嬢様に見ていただきたい、そう思っているものです。後からお叱りを受けることもあるかもしれませんが、それも覚悟の上のことにございます」
「私に一体、何を見せようとされているのですか」
「着きました。こちらでございます」
エレベーターで地下一階に降りた安川が、扉の前で言った。
「どうか、物音を立てられない様に」
そう言って人差し指を口に当てて、静かに扉を開ける。
あおいが中に入ると、安川は一礼して扉を閉めた。
「……」
中に入ると、線香の香りがした。
数十人が座れる椅子が両サイドに並べられていて、正面には祭壇が祀られていた。
誰もいない……そう思いながら通路を歩いて行くと、一番前の席に座っているしおりの姿が目に入った。
あおいが息を忍ばせて近くの椅子に座り、しおりを見つめる。
しおりは手に一輪の花と共に、何か白い札の様な物を持っていた。
背筋を伸ばし、まっすぐに祭壇を見つめるしおりの姿は、いつもあおいが感じている、尊敬する姉の姿そのものだった。
やがてしおりは立ち上がると、祭壇へと進んだ。
一輪の花を
「あれは……」
しおりがボードに差し込んだ札。それは利用者たちのネームプレートだった。よく見ると、ボードが何枚もあり、そこには数え切れないほどのプレートが祀られていた。
「木山……アサ様……」
しおりがプレートを見つめる。
「あなたはこれまで、私などでは想像も出来ない苦難を乗り越え、今日まで生きてこられました……国の為、社会の為、ご両親、子供様、お孫様の為に、休まることのない日々を戦って……今日、あなたはその戦いの日々に幕を閉じ、安息の時を迎えられました。願わくばあなたに、ひと時の安穏が訪れることを、心よりお祈り申し上げます」
そう言って深々と頭を下げるしおりに、あおいの胸は熱くなった。
「姉様……」
しおりが語り掛けている、木山なる人物。恐らく彼女は、定時連絡の電話で報告を受けた利用者なのだろう、そう思った。
しおりはこうして、利用者が亡くなる度にここに足を運び、プレートを祀っていたのだ。そう思うと、体が震えて来た。
介護についての考えをぶつけあっていた時。正直あおいの中に、しおりに対して憤りとやるせなさが生まれていた。
誰もが羨む才能を持ち、常に光の当たる場所で生きて来た姉には、利用者たちの苦しみや哀しみなど理解出来ないのだろう。社会で必要とされていない者の気持ちなど感じられないのだろう。風見家と森園家の繁栄の踏み台としてしかみていないのだろう、そんな不遜な考えまでもが生まれていた。
この人とは分かり合えないのだ。姉としての彼女は尊敬しているし、愛している。しかし介護の世界においては、私とは見ている景色が違い過ぎる、そう思った。
しかし今、部屋の入口に設置されていたプレートを大切に祀り、花を
「……」
しおりが口を押え、その場に跪いた。
「ごめん……ごめんなさい……私にもっと力があれば……あと十年遅く出会っていたなら……木山さん、あなたにもっと幸せな最後を迎えてもらえたかもしれません……私はあなたのご家族の為、あなたの人生の最後を犠牲にしてしまいました……力のない私を……どうか許してください……」
震える声は嗚咽によってかき消され、しおりは床に顔を埋めて泣いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、木山さん……」
「姉様!」
あおいが大声で叫び、しおりに駆け寄り抱き締めた。
「あおい……どうしてあなたが」
「姉様、ごめんなさいです……私は姉様の本当に気づけませんでした……姉様は姉様に出来ることを、精一杯頑張ってましたです……なのに私は、そんな姉様のお気持ちに気付くこともなく、ただただ反発してしまいましたです」
「あおい……馬鹿、どうしてあなたが謝るのよ。どうしてあなたが泣くのよ」
「だって、だって……姉様が泣いているからです……木山さんに謝っているからです……」
「全く……どうせ安川に言われたんでしょ。こんな姿、あなたにだけは見せたくなかったのに」
「姉様……そんなこと言わないでくださいです。私はもう、子供じゃありませんです。こうして哀しむ姉様を、抱きしめることぐらい出来ますです」
「何……何言ってるのよ、まだまだ子供の癖に……
この人、木山さんはね……戦争でご主人を失って、たった一人で7人のお子さんを育てて来たの……一度木山さんの入浴介助をしたことがあるんだけど、皺だらけになった胸を両手で持ってね、こう言ったの……『この乳で7人、育ててきたんです』って……」
「姉様……姉様……」
「でもここに来てからは、ずっと不穏なままだった……いつも言ってたわ。『私は子供たちに捨てられた』って……辛かった、聞きたくなかった……」
「姉様……もういいです、いいんです……」
「あおいこそ……ほら、泣き止んで頂戴」
「姉様だって、泣いてますです」
「いいから泣き止みなさい。ほら、笑って」
「姉様……姉様……わあああああああっ!」
祭壇の前であおいが、しおりを抱き締めて泣いた。
そんなあおいを愛おしそうに抱きしめ、しおりも声をあげて泣いた。
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