第120話 先生と呼ばせてください
顔を洗って食堂に向かうと、食堂ではつぐみとあおい、そして菜乃花が慌ただしく動き回っていた。
「……」
勢いのままに謝ろうと思っていた兼太だったが、皆の真剣な表情に圧倒され、声をかけられなくなってしまった。
「あおい、もたもたしないの。テーブルの消毒は終わったの?」
「は、はいです!今からしますです!」
「ちゃんと消毒しておいてよね。今は風邪もはやってるし、入居者さんに何かあってからじゃ遅いんだからね」
「分かりましたです!」
「つぐみさん、小皿の盛り付け、お願いしてもいいですか」
「了解よ。菜乃花は大皿の方、頼んだわね」
「はい、まかせてください」
「……すごいな、みんな……こんな朝早くから、もう仕事モード全開なんだ……」
「おはよう、兼太くん」
声に振り返ると、節子にしがみつかれている直希が立っていた。
「お、おはようございます!」
「ははっ、相変わらず元気いいね。どう?よく眠れたかな」
「は、はいっ!それはもう、爆睡させていただきました!」
「それはよかった」
「ああ直希、ちょうどよかったわ。トレイに料理、置いていってもらえるかしら」
「おう、まかせとけ。それじゃあ節子さん、一緒にお願い出来ますか」
直希がそう言って節子の顔を覗き込む。節子は少し頬を赤らめ、小さくうなずいた。
「あら?兼太くん、もう来てたのね。おはよう。よく眠れたかしら」
「お、おはようございます!あ、あの……俺も手伝います!」
そう言ってカウンターに行き、トレイを持とうとした。
「待ちなさい」
「え……?」
菜乃花の厳しい声に、つぐみもあおいも手を止めた。
「え……今のって、ひょっとして菜乃花?」
つぐみの声にお構いない様子で、菜乃花が兼太を見つめて続ける。
「消毒、ちゃんとしてくださいよね。何を触ったかも分からない雑菌だらけの手で、入居者さんの食事を運ぶつもりですか。ほら、そっちにアルコールあるから」
菜乃花が指を差す方向を見ると、直希と節子がアルコールで手を消毒していた。
「全く……これだから男子は」
「ははっ、面目ない」
「あ、いえ……直希さんのことじゃないですから……直希さんはそういうところ、ある意味私たちよりもしっかりなされてますし」
そう言って頬を染める菜乃花に見惚れながら、兼太も手を消毒する。
「あ、あの……それからその、菜乃花ちゃ……」
「なんですか、兼太くん」
菜乃花が「くん」に力を入れる。
「あ、すいません、菜乃花さん……あの、昨日はその……」
「なんのことですか。私、よく覚えてませんけど」
「菜乃花、そんな言い方だと兼太くんが」
「つぐみさん、小皿に盛り付け、してもらえました?ならすいませんけど、お茶の用意、お願いしてもいいですか」
「は、はい!」
菜乃花の剣幕に、つぐみが思わずそう答えた。
「いや、その……昨日ほら、風呂場で」
「お風呂場で?ああ、子供っぽい私の裸を見たことでしょうか。ごめんなさい、中学生の裸なんて見せてしまって。兼太くんの様な大人には、さぞ目の毒になったでしょうし」
「いや、あの、その……」
「兼太さん兼太さん」
あおいが兼太の服をつかんで引き寄せる。
「今はやめておいた方がよさそうです。ここは戦略的撤退で」
「いや、でも……」
「でも、ではありませんです。いいですか、何事にも時というものがありますです。そして今は、その時ではありません。もうすぐみなさんも来られますし、ここは直希さんを手伝って、一緒に料理を運んでほしいです」
「わ、分かりました」
あおいの言葉にうなずき、兼太は菜乃花に頭を下げ、食事を運び出した。
「生田さんは……まだ来ないのかな」
食堂で、生田以外が全員席に着いていた。
「俺、ちょっと見て来ます」
兼太がそう言って立ち上がった時に、生田が姿を現した。
「おはようございます、生田さん」
「……ああ……おはよう、みなさん……遅れてしまって申し訳ありません」
そう言って、生田がハンカチを目の辺りに押し当てた。
「ちょっ……じいちゃん、どうしたんだよ」
「生田さん、どこか具合でも」
「ああ、いや……すまない、何でもないんだ。直希くん、食事にしてもらえるかな」
「分かりました……ではみなさん、いただきます」
「いただきます」
皆が声を合わせてそう言って、朝食が始まった。すると生田は立ち上がり、直希の隣にいる節子の元へと向かった。
「節子さん……食事中に申し訳ない。だがどうしても、すぐに伝えておきたくてね……」
「生田さん、本当にどうしたんですか。それに……節子さんに、ですか」
「ああ。昨日節子さんに言われて、少し興味が湧いたものでね。芥川龍之介の『トロッコ』、先ほど読ませてもらったんだよ」
「もう読まれたのですか。流石ですね」
「いや、あの作品はそんなに長い物ではないのでね……それで、何だが……節子さん、素晴らしい作品を教えていただき、ありがとうございました」
そう言って、節子に深々と頭を下げた。
「え……」
「ちょ……ちょっとちょっと生田さん、本当にどうしちゃったんですか」
頭を下げ、再びハンカチで涙を拭う生田に、つぐみも心配そうに傍にやってきた。
「……読んだんかね」
「はい……私も若い頃に、一度だけ読んだことがありました。そしてあの時は……特に何も感じず、昨日節子さんに言われるまで忘れていたほどのものでした。しかし……今読めてよかったと、心からそう思いました」
「……」
「節子さんが勧めてくださった意味、分かったような気がしました。最後の一節……たまりませんでした」
「……あんたも、あれが分かるほど年輪を重ねたと言うことさね」
「はい……なぜなのか分からない。どう言葉にすればいいのかも分からない。ただ……いつの間にか泣いてました。こんな気持ちになったのは、本当に久しぶりでした」
「いい子じゃ、よく読んだの」
そう言って、節子が笑顔で生田の頭を撫でた。
「せ、節子さんが……生田さんの頭を……」
つぐみがその光景に唖然とする。
生田は頭を撫でられると、少し声を漏らして再び泣いた。
「次は……そうさね、折角なんだ。同じ芥川で、『羅生門』を読んでみるといいさね。あれも、読む時によって感じ方が大きく変わる作品さね」
「分かりました、是非読ませていただきます……節子さん、今後は節子先生と呼ばせていただきます」
「せ、節子先生?」
つぐみがそう声を漏らす。
「夏目漱石も読み返してみるといい。きっとあんたなら、味わい深く読めるはずさね。『こころ』なんていいかもしれん。あれは美しい日本語が詰まっておる」
「分かりました……またご教授のほど、よろしくお願いします」
そう言ってもう一度頭を下げると、涙を拭って生田は席へと戻っていった。
「どうしたんさね」
固まっている直希に向かい、節子が言った。
「あ、いえ……あんな生田さん、初めて見たものですから」
「あんたは読んでないんかね」
「あ、はい。昨日もバタバタしてたもので……今日の内には是非」
「いいさね。あんたにはまだ、ちょっと早いかもしれんさね」
「そうなん……ですか」
「あんたは同じ年頃のもんに比べれば、それなりに経験も積んでいるようじゃが……それでも今じゃないんかもしれんさね。あんたには……そうさね、芥川なら『杜子春』なんかがええかもな」
「『杜子春』ですか……聞いたことはあります」
「あれは話自体に華があるさね。あんたらが読んでも、十分面白いと思うさね」
「分かりました。是非読ませていただきます」
そう言って箸を向けると、節子は満足そうに口を開けた。
その様子を見ていた全ての者の中に、後で「トロッコ」、読んでみよう、そんな気持ちが生まれた。
席に戻り、兼太の顔を見て微笑む生田。おいしそうに料理を口に入れる節子。
あおい荘にまた、新しいエピソードが一つ生まれたと、皆が嬉しそうに微笑んだ。
「……」
兼太が恐る恐る菜乃花を見る。すると菜乃花も兼太の方を見ていて、目が合った。
「ふふっ……」
「え……」
菜乃花の微笑みに、兼太が顔を真っ赤にしてうろたえた。
「兼太くんも……早く食べてくださいよ。冷めちゃったら、おいしさ半減しちゃいますからね」
「あ……は、はいっ!いただきます!」
そう言って、兼太が嬉しそうにうなずいた。
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