第119話 俺の天使
脳裏から、風呂場で見た菜乃花の姿が消えなかった。
事情を聞いて真っ青な顔をしている生田をよそに、早々に布団に潜り込んだ兼太は、菜乃花を思い浮かべながら悶々としていた。
初めて出会ったあの日。
頭の中が生田のことでいっぱいだったにも関わらず、菜乃花から目を離せなかった。
これまで幾度となく、女子に告白されていた。しかし兼太は、恋なるものがどういうものなのか、よく分かっていなかった。
恥じらいうつむく女子に向かい、
「ちなみに、俺を好きってどういうことなのかな?俺、よく分からなくて」
と不思議そうに見つめ、首をかしげていた。
しかし菜乃花に会ったあの日、ようやくそれがどういうことなのか、分かった気がした。
目に涙を浮かべ、心配そうに生田を見つめる菜乃花を見て、全身に鳥肌がたった。
それから3か月。毎日菜乃花を思い浮かべ、眠れぬ夜を過ごした。
もう一度会いたい、あの天使に。
そう思い、勉学に励んだ。
そして再会。彼女が髪を切っていたことに驚いた。
肩まであった、あのふわふわな髪。顔を埋めて眠りたい、そんな妄想をしていた髪がなくなっていた。
しかし自分の気持ちが、何一つとして冷めていないことを感じた。
むしろ、前に会った時よりも魅力を感じた。
弱々しく映っていた彼女。しかしその中に兼太は、強い何かが眠っていることを感じていた。今目の前にいる彼女は、まさに自分が思っていた彼女だ、そう思った。
俺は彼女に恋している、そう確信したのだった。
そんな彼女のあられもない姿を目にしてしまい、申し訳なさと同時に、抑えようのない気持ちの高ぶりを覚えた。
何度も何度も、アプリに加点と減点を繰り返しながら、兼太は眠りについたのだった。
「菜乃花ちゃん……やっぱ天使だよ、君は……」
「……」
近くで誰かの話し声が聞こえる。
いつの間にか眠ってたんだな、そう思いながら寝返りをうち、声の方を薄目で見る。
「ふふっ……そんなに気にしないでください」
「しかし……いや駄目だ、これはこれ、しっかりけじめはつけさせてもらわないと」
「あ……生田さん、血圧を測ってるところですので、動かないでください」
「あ、いや……すまない……」
話をしていたのは、生田のバイタルを測っている菜乃花だった。
腕時計を見ると、まだ6時前だ。
こんな時間から菜乃花ちゃん、働いてるんだ……
そう思うと、また胸の鼓動が早くなった。
「はい、問題ありません。今日も生田さんのバイタル、健康そのものです」
「ありがとう、菜乃花くん……それで、先ほどの話なんだが」
「ですから生田さん、そんなに謝ってもらうと困ります。大丈夫です、別に怒ってませんから」
「しかし……」
「確かにその……男の人に肌を見られたのって、初めてだったから、その……恥ずかしかったですし、怖かったです。でも兼太くんも、わざとじゃなかった訳ですし、いつまでも気にしていたら、それこそ兼太くんに申し訳ないですから」
「……ありがとう、菜乃花くん。勿論兼太のやつも、邪な気持ちを持っていたのではないと分かっている。だが……菜乃花くんのショックを思うと、どうしてもね」
「ふふっ……生田さん、本当に兼太くんのことがかわいいんですね」
「あ、いや……私のような者が、こういうことを言うのは恥ずかしいのだが……兼太は子供の頃から、なぜか私のことを慕ってくれていたんだ。こんな不愛想で、面白いことの一つも言えない年寄りのどこがよかったのか」
「そんな風に言わないでください、生田さん」
そう言って、菜乃花が笑った。
「生田さんは本当に穏やかで、優しい人です。そして人の中にある、善の心を信じている、素晴らしい人なんです。私も……そんな生田さんのことが大好きなんですから」
「面と向かって言われると、少し照れくさいのだが……ありがとう」
「ふふっ……そうやってすぐに照れてしまうところも、私は大好きですよ」
「ははっ……菜乃花くんには
「兼太くんもきっと、そんな生田さんのことを分かってるんだと思います。生田さんのいいところを分かってくれる、そんな人に出会えて、私も嬉しいです」
「……ありがとう。それから、本当にすまなかった」
「ですから……はい生田さん、この話はこれで終わりです」
そう言って小さく笑い、静かに立ち上がった。
「じゃあまた、朝食の時に。兼太くんにも、遅れないように言っておいてくださいね」
「ああ……ありがとう」
「では。今日もいい一日になりますように」
そう言って微笑み、菜乃花が部屋を後にした。
「……」
扉が閉まると、生田がゆっくりと兼太の方を向く。兼太は慌てて目を閉じ、眠っているふりをした。
「……兼太。寝たふりをするなら、もう少しうまくしなさい」
「……お、おはよう、じいちゃん」
穏やかだが重い一言に、兼太が観念して笑った。
「……気付いてたんだ」
「孫の嘘ぐらい分からなくてどうする。わしはこれでも、人の嘘を見分ける仕事をしていたんだぞ」
「だよね……ははっ」
「よく眠れたのか」
「うん、まあ……いつ寝たのかも、覚えてないけど」
「食堂に行ったら、ちゃんと菜乃花くんに謝っておくんだぞ」
「それは勿論だけど……菜乃花ちゃん、本当に怒ってないのかな」
「それはわしにも分からんさ。あれはあくまでも、わしに対しての返答だからね」
「ならじいちゃん、一緒に」
「駄目だな」
「えええええ?」
「お前も男だろ。それにもう、立派な大人なんだ。自分のけじめは、きちんと一人でつけてくるんだ。まあ、それで駄目だったなら、少しは考えてやるが」
「分かったよ。それじゃあ顔洗って、先に行ってくるよ」
「ああ、そうするといい。わしは少し……遅れてから行くことになると思う」
「なんで?無理に時間差作らなくてもいいんだよ」
「いや、その……本当は昨日の内に読みたかったのだが、お前のおかげでそれどころじゃなくなってしまったからな。わしは今から、これを読もうと思っている」
そう言って兼太に見せた物。それは古びた四六判の書物だった。
「芥川龍之介全集……ああ、昨日言ってたやつね」
「ああ。幸い『トロッコ』は、そんなに長い話じゃない。折角節子さんが話してくれたんだ、出来れば朝食時に、感想を言いたくてね」
「なるほど。分かったよ。それじゃあ俺、先に菜乃花ちゃんに謝って来るよ」
「ああ。ちゃんと誠意を示すんだぞ」
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