第118話 節子先生と不幸な事故と


 兼太がよく分からないままに、食堂中が穏やかな笑いに包まれていた。

 先程のやり取りから、入居者たちも兼太の気持ちに何となく気付いているようだった。しかし、その兼太に向かい節子の放った一撃が、「それを言ってしまったら駄目でしょう」とばかりに入居者たちの笑いを誘った。

 入居者たちが、顔を真っ赤にして動揺する兼太に温かい視線を送る。


「そうだ兼太くん。節子さんはね、国語の先生だったんだよ」


 少しかわいそうになってきた直希が、そう言って兼太に助け舟を出した。


「え、そうなんですか」


「うん。特に節子さん、純文学には目がなくてね。兼太くんは好きな本とかあるのかな」


「はい……子供の頃から母ちゃんに言われて、結構読んだとは思いますけど」


「どんな本さね。言ってごらん」


「本」というワードに反応し、節子が言った。


「そう、ですね……俺はどっちかって言ったら、昔の本より今の本の方が好きです。ファンタジーとかSFとか」


「昔のは……面白くなかったかね」


「いえ、面白い面白くないとかじゃなくて……なんて言ったらいいんでしょう、やっぱり古典だなって言うか、硬いって言うか、話の展開もあまりなくて、ちょっと退屈って言うか」


「……」


 兼太の言葉に、節子は目をつむって黙って聞いている。


「この前も、その……芥川龍之介の『トロッコ』を国語の時間に読んだんですけど、何ていうか、別に?それで?としか思えなくて……」


「やっぱりわらしさね、あんたは」


 小さく息を吐き、節子が兼太に言った。


「子供ってのは、とにかく話の展開だけを追うもんさね。話が面白いかどうか、興味はそこにしかないもんさね。だから展開が少ないと、良さを感じる前に拒絶してしまう。

 今あんたが言った『トロッコ』もね、私もよく教材として教えたもんさ。でもほとんどの生徒は、退屈そうにしてた。トロッコを押して上って、下りで乗る。だから何なんだ、って感じにね」


 節子が淡々と、「トロッコ」について語る。いつもの節子とはあまりにも違う雰囲気に、入居者たちも、それに食事に夢中になっていたあおいさえも手を止め、節子の話に聞き入る。


「でもね、『トロッコ』は仕方ないんだ。あの作品の良さは、子供には伝わりにくい。あんたたちには経験が少ないから、あの作品の底に流れている、感じてほしい物が見えないんだ。それが……年を重ねると、しみじみ伝わってくるんさね。私はあの作品、10年おきに読むべきだと思ってる。その度に感じられる物も変わっていって、そして涙するはずだからね」


「涙……あの作品に泣く要素なんてあるんですか」


「だからあんたはわらしなんさね。そうさね、あんたも社会に出て、一角の男になってから読み返してみるといいさね。そうしたら最後に、きっと涙するさ」


「そういうものなんですか」


「はやりの本を読むのもいい。面白い書物に触れるのは、人生を豊かにする。しっかり読んで、あんたの肥やしにするといい。でも、古典が古臭いってのは違うよ。今の時代に合わないとか、そういう目でしか読めないのは、人生を損してるさね」


 そう言うと、節子は兼太の頭を撫でた。


「頑張りなさい」


「あ……は、はい……」


 固まる兼太の元へと来た生田が、節子に頭を下げた。


「節子さん……孫へのご教授、ありがとうございました」


 しかし節子は、話し終わると元のモードに戻った様子で、直希にしがみついて食事をねだった。


「はいはい、分かりました……それと節子さん、俺も今度、『トロッコ』読み直してみます。確か電子書籍の中にあったはずなので」


「私も……読んでみるとします。私は確か、押し入れの中にしまってたはずなので」


 生田がそう言うと、節子は料理を口に入れながらうなずいた。


「電子でも本でもいいさね……いい本にいっぱい、触れるといいさね」





 夜。

 生田が押し入れの中から本を探しながら、兼太に言った。


「そういえば兼太、風呂には入らないのか」


「そうだ、風呂……すっかり忘れてた」


「丁度今、スタッフのみなさんが入ってる頃だ。直希くんに聞いてみるといい」


「分かった!ちょっと行ってくる!」


 生田の言葉も終わらない内に、兼太が着替えを持って風呂場へと向かった。


「兼太、ちゃんと直希くんに聞くんだぞ」


「分かってるって」


 廊下に飛び出した兼太は、一目散に風呂場へと向かった。


「じいちゃんは本当、真面目過ぎるんだよな。男同士なんだし、いちいち確認しなくても大丈夫だって」


 そう言って風呂場の暖簾をくぐると、脱衣場に人の気配がした。


「よし、タイミングばっちり。ここはひとつ、背中でも流しながら、菜乃花ちゃんのことに探りを入れて……」


 そう言いながら勢いよく扉を開け、


「失礼します!一緒にお風呂、入らせていただきます!」


 そう爽やかに言った。


「え……」




 兼太の視線の先にいたもの。

 それは直希ではなく、下着姿でこちらを見ている菜乃花だった。


 透き通るような白い肌。やわらかい体のラインに、兼太の視線はくぎ付けになった。




「え……え……け、兼太……くん……?」


「な……菜乃花……ちゃん……?」


 固まった二人が、互いの名を呼び合う。


「あはっ、あはははっ……そ、そうですよね……スタッフって言ったら、菜乃花ちゃんたちのことでもあるんですよね……」


「な……な……」


「あはははっ、すいませんすいません、俺てっきり、直希さんが入ってるもんだとばかり思って。だから男同士、裸の付き合いでもしようかなって」


「い……い……」


「い?」


「いつまで見てるのよ!この変態!」


 真っ赤になった菜乃花がそう叫び、そばにあった洗面器を兼太に投げた。


「ぐふっ……」


 洗面器は見事顔面に直撃、兼太がうなる。


「出てって!早く出てって!」


 座り込んで体を隠した菜乃花が、涙目で叫ぶ。


「あ、その……ごめん、ごめんなさい!だから違うんです、これはその、誤解!誤解で」


「いいから出てってってば!いつまで見てるのよ!」


「し、失礼しました!」


 慌てて風呂場から出ると、叫び声に駆け付けた直希とつぐみと鉢合わせた。


「ちょっと兼太くん、あなた何してるのよ!」


「いやその、これは不幸な事故と言いますか」


「つぐみ、それより菜乃花ちゃんだ。早く見に行ってやれ」


「そうね……兼太くん、後でちゃんと、説明してもらいますからね」


 そう言ってつぐみが脱衣場に入ると、菜乃花の泣き声が聞こえた。


「やってしまった……やってしまったよ、俺……」


 その場で膝から崩れた兼太が頭を抱える。


 その兼太の頭に、優しい温もりが伝わってくる。


「直希……さん……」


 そう言って顔を上げる。


「え……」


 それは直希にしがみついている、節子の手だった。

 兼太を見てにんまりと笑った節子が、親指を立てる。


「やるな、小僧」


「いや……そんなんじゃないですからあああっ!」

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