第112話 新しい関係


「その為に、あおい荘のような施設が必要なの。一昔前なら、自分の親を施設に預けるなんて、とんだ親不孝者だ、なんて言う人も多かった。でもこれだけ高齢化が進んで、認知症の患者が増えた今となっては、それを受け入れる社会にも限界が来てしまったの。核家族化も晩婚化も進んでいる。個人で背負うには、あまりにも負担が大きすぎるの」


「それは分かりますです。ここに来た頃の節子さんを安藤さんが見るなんてこと、とても出来るとは思えませんです」


「節子さんだけじゃないわよ。例えば寝たきりになった人のお世話だってそう」


「身体介護……ですか」


「ええ。私たちは仕事で、決められた時間にだけ従事してたらいい。特養(特別養護老人ホーム)に行けばよく分かると思うけど、ああいった施設では、二時間から三時間おきに、オムツの交換があるの。あと、体位交換もね」


「……」


「家で家族の人が、自分の生活も維持しながら出来ると思う?それも一日二日じゃない、ずっとよ」


「確かに……大変ですね」


「勿論夜も。二時間おきに目を覚まして、毎回毎回オムツの交換をするの。食事の介助もしなくてはいけない」


「……」


「その繰り返しが延々と続く生活。家族の人たちの疲労とストレスは分かるでしょ」


「……はい」


「だから私たちがいるの。そういう方たちのお世話をさせていただくことで、家族さんの負担を減らすことが出来る。そして家族さんたちは自分の生活を少しずつ立て直して、心と体に余裕を取り戻していける」


「それが今の安藤さんなんだよ、あおいちゃん、菜乃花ちゃん」


「あ……」


「心に余裕が生まれると、笑顔も増える。今の安藤さんを見てると、分かるでしょ」


「はい、よく分かりますです」


「そして今、あれほど負担に思っていた母親に会いに来ることが、安藤さんの中で楽しみになっている。ある意味安藤さんと節子さんにとっての、新しい親子関係が出来つつあるってことなの」


「新しい……親子関係……」


「そう。私たちが間に入ることで、壊れかけていた家族の絆を、新しい形で取り戻すことが出来るの」


「まあ、今の節子さんの状態は、奇跡みたいなものだけどな」


「そうね……節子さんの様に状態が改善されることなんて、ほとんどと言っていいほどない事例だものね」


「ほとんどない、ですか……」


「ええ。前に言った言葉、覚えてるかしら。ADL(日常生活動作)は低い方に影響されるって」


「はい……山下さんみたいに、ですよね……」


「そう。それが周りに大勢いるの。認知症の方を預かる施設として、グループホームがあるけど、あそこの場合は1フロアーに9人いるの」


「認知症の方が、9人……」


「色んな人がいるわ。暴言暴力、異食、入浴拒否。徘徊もある。そういう空間に、日中ならスタッフが約三人、夜勤はほとんどが一人ね。その人員だと、日々の生活を回すだけで精一杯なの。入居者さんのADLを維持させることが精一杯で、向上させるなんてこと、本当奇跡に近いかもしれない」


「スタッフも神様じゃないからね。入居者さんの安全と健康管理だけでも、手が回らないぐらいなんだ」


「……そうなんですね」


「でも今の節子さんを見て、可能性はゼロじゃないってことを、私たちは知った。教えてもらった。可能性がゼロじゃない以上、この世界で生きると誓った私たちは、希望を捨てず、諦めずに頑張っていくのよ」


「はい!」


「安藤さんのように、お母さんと新しい関係を築ける人が一人でも増えるように、そして節子さんのように、絶望的だった状況を好転させる為にも、みんなで頑張りましょう」


「はいです!」


 二人の決意に、直希もつぐみも嬉しそうにうなずいた。


「あと、山下さんのことも……よかったわね」


「そうだな。少なくともあれ以来、俺のことを亡くなったご主人と間違えなくなった」


「それに排泄の方も、かなりよくなりましたです」


「そうね。まだまだ油断は出来ないけど、でも明らかに、元の山下さんに戻りつつある」


「諦めなくてよかったです。私は正直、山下さんのことにしても、リハパン(紙パンツ)に変えることを、直希さんやつぐみさんに言いましたです。でもお二人は、もう少し我慢しよう、諦めちゃ駄目だ、そう言って励ましてくれましたです。

 もしあの時、山下さんにリハパンをはいてもらっていたら、ひょっとしたら今のようになってなかったかもしれないです。お二人には本当に感謝です」


「いや……俺も正直、どっちがいいのか分からなかったんだ。でも、あおいちゃんや菜乃花ちゃんが頑張ってるのをずっと見ててね、もう少し、もう少しだけ待ってみよう、そう思わせてもらえたんだよ」


「そんな……恥ずかしいです」


「菜乃花、本当のことなんだからね、胸をはってもいいわよ。私もね、何度も直希に相談したの。でもその度に菜乃花たちのことを思い出して、私も頑張ろう、そう思えたのよ」


「節子さんとダブルだったからな、二人共本当に大変だったと思う。でも……節子さんのことも、本当に二人共よく頑張ったよ。暴力を振るわれたりもしたけど、それでも二人が、節子さんに対して怒りや憎しみの感情を持たず、この人と信頼関係を結びたい、そう強く思ってくれたからこそ、それが節子さんに届いたんだと思う」


「そんな……憎しみや怒りなんて」


「スタッフも人間。さっき直希が言った通りよ。いくら仕事とはいえ、いくら認知症の方とはいえ、あんな風に暴力を受けてしまえば怒ってしまっても仕方がない。だってそれが人間だもの。

 でも二人は最後まで、節子さんのことを諦めなかった……私たちが知らないところで、泣いたこともあったでしょ?悔しくてもどかしくて、どうしたらいいのか分からなくて……そんな思い、いっぱいしたでしょ」


 その言葉に、あおいと菜乃花の目に涙が溢れて来た。

 そんな二人を、つぐみが愛おしそうに見て微笑む。


「……今の節子さんの……そして安藤さんの、山下さんの笑顔は、あなたたちのおかげよ。あおい、菜乃花……よく頑張ったわね、ありがとう」


「つぐみ……さん……」


「つぐみさん……」


 つぐみの微笑みに、こらえようとしていた涙が頬を伝った。二人の中に、これまでの辛かった日々が蘇り、やがてそれは嗚咽へと変わっていった。


「ありがとう……ございました、つぐみさん、直希さん……」


「私たち……お二人の元で働けて、本当によかったです……」


 途切れ途切れの言葉と共に、二人がつぐみに抱き着いた。


「本当に……よく頑張ったわね……ありがとう、あおい、菜乃花……あなたたちは私の誇りよ」


「つぐみさん……」


「私たちの方こそ……ありがとうございましたです……」


「俺の誇りでもあるよ、君たちは」


 そう言って、目頭を押さえた直希が、二人をつぐみごと抱きしめた。


「本当に……本当にありがとう、みんな……」


「直希さん……」


「直希……さん……」


 直希の言葉に、あおいと菜乃花の涙は堰を切ったように溢れてきた。

 つぐみの目にも、涙が光っていた。


「何よ、いつもいい所ばっかり取っちゃって……馬鹿直希もお疲れ。よく頑張ったわね」


「ああ……つぐみも、ありがとな……」


「何よ……何よ何よ……馬鹿直希……」


 三人が声を上げて泣く。その三人を抱き締め、直希も涙を流しながら笑った。

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