第99話 西村さんと生田さん
つぐみから、直希の強い思いを聞いたあおいと菜乃花。
二人の心に、これまで以上に強い決意の火が灯された。
私たちを信じてくれている直希さんの為にも、全力でこの問題に立ち向かっていこう。
二人の思いは、言葉にせずとも入居者たちにも伝わり、皆が一丸となって、あおい荘を守っていくんだという気持ちになっていった。
山下の症状は、幸いあの日の一時的な物で済んでいた。次の日にはいつもの山下に戻っていて、あおいは胸を撫でおろしたのだった。
しかしあおいの心に、介護の世界の厳しい現実を見た衝撃は深く残っていた。
私の知っている世界は、まだほんの僅かな物でしかない。こんなことで動揺していては、一人前のヘルパーになれない。
あおいの中に、静かに決意のようなものが生まれつつあった。
そんなある日、直希は役所に行かなくてはいけない用事が出来た。相変わらず節子が付きまとい、離してくれなかったのだが、節子を連れて行く訳にもいかず困っていた時に、西村と生田が声をかけてきた。
「ほっほっほ。ナオ坊や、そんなに毎日節子さんを独り占めするもんじゃないぞ」
「西村さん……独り占めってそんな、いじめないでくださいよ」
「ほっほっほ。たまにはほれ、この老いぼれにも華を持たせてくれんかの」
「え……」
「と言う訳だ。西村さんと相談してね、今日は私たちが、節子さんのお相手をさせてもらおうと思ってね」
「生田さん……いいんですか」
「ああ。君も少し、羽根を伸ばしてくるといいさ。と言っても仕事で行くんだし、そうはならないかもしれないが……でもよければその後で、少し気分転換でもするといい。大丈夫、任せてくれたまえ」
「そういうことじゃ。ささ、節子さんや。今日はこの二人のダンディーな男前が、お相手してしんぜよう」
「生田さん……西村さん……ありがとうございます」
「気を付けて行ってくるといい。ここのことは気にしなくていいからね」
「はい。なるべく早く戻ってきますので」
「ほっほっほ。生田さんが言ったばかりじゃぞ。少し気分転換でもしてくるといい。なぁに、わしらもたまには、こうして女性の同居人ともコミュニケーションをとらんとの」
「……ありがとうございます。では、いってきます」
直希は二人に頭を下げると、車で役所まで向かった。
「さて、と……これからどうしたものかいのぉ」
「なんだ西村さん、何か策でもあるものだとばかり」
「ほっほっほ。無策の策、というやつじゃよ。こういうのは、余り深く考えすぎん方が、いいこともあるんじゃて」
「なるほど、ね……それじゃあ今回は、西村さんに任せるとしましょう」
「それじゃあ節子さんや……まずは庭でも見てみんかの。あんたまだ、ここの庭を見たことがなかったじゃろ。ここの庭にはの、菜乃花ちゃんが毎日心を込めて育ててくれてる、立派な花壇があるんじゃ。それを見ずして、あおい荘の住人とは言えんぞ」
西村の腕にしがみついた節子は、そう言って玄関に歩き出した西村について行ったが、いざ靴を履き外に出ようとすると、その場で立ちすくんでしまった。
「なんじゃ?お外が怖いんかいの。大丈夫じゃて、あんたの隣には今、頼りになる用心棒が二人もおるんじゃ。怖いもんなんて、どこにもないぞ」
そう言って西村が笑うと、節子はうつむきながら小さくうなずき、ゆっくりと歩き始めた。
「ほぉれ、今日もいい天気じゃぞ」
真っ青な空を見上げて、西村が言った。
「秋の空っちゅうもんは本当、青くて高いのぉ」
その言葉に、節子が目を細めて空を見上げる。
西村の言うように、高く青い空に、節子も自然と口元がほころんだ。
「節子さん、あんた……最近空を見上げるなんてこともなかったろうに」
「……」
「年を取っていくとの、だんだんそうなっていくもんなんじゃ。自分でも知らん内に、いつの間にか下ばっかり見るようになってしまう。毎日見るのは、地面と自分の足だけ、みたいにのぉ……わしも昔、そうじゃった。少し見上げれば、世界はこんなにも綺麗で楽しいことだらけなのに、それを見ないようになっていった」
「ははっ……西村さんが言うと、説得力がありますね」
「じゃろ?わしもそう思っとる」
「ははっ」
「ほっほっほ」
西村が花壇の前でしゃがむと、節子も同じようにしゃがみ込み、花をみつめた。
「花なんてのもな……幼稚園……小学校の低学年ぐらいまでかの、大人が教えてくれるのは……だからあの頃は、季節の花なんてのもよぉ覚えておったもんじゃ。じゃが……いつの間にか見ることもなくなっていった。それでもこいつらは、ちゃんと時が来れば花を咲かせて、わしらが気付くのを待ってくれておる」
「……」
「生田さんや、煙草は持っとらんかいの」
「あ、ああ……だが西村さんは、煙草」
「昔は吸っとったぞ。真面目人間だった頃にはそれはもう、これぐらいしか楽しみがないってぐらいにの」
「ははっ、そうでしたか」
生田が差し出す煙草に火をつけると、うまそうに一息吸って煙を吐いた。
青い空に白い煙が舞う。
「……うまいっ!何十年ぶりかで吸う煙草はうまいっ!」
満足げにそう言い、微笑む。
そんな西村を見て、節子は何か言いたげに口を動かした。
「なんじゃ?ひょっとして節子さん、あんたも欲しいんかいの」
西村の言葉に、節子が頬を染めてうつむいた。
「ほっほっほ。煙草を吸う
「ええ、構いませんよ」
生田が差し出す煙草に火をつけると、節子が恐る恐る煙を吸った。
「ごほっ……ごほっ……」
「だ、大丈夫ですか、節子さん」
「ほっほっほ。わしらがあまりにうまそうに吸うもんじゃから、さぞうまいんじゃろうと思ったんかいの。節子さんや、大丈夫じゃからな。ほれ、わしの様に吸ってみるといい。こうして、ゆっくり少しだけ吸って……」
西村を見ながら、同じようにゆっくりと煙を吸い込む。そして煙を吐きだすと、節子は嬉しそうに笑った。
「ほっほっほ。ひょっとしたら節子さん、あんた煙草は初めてかいの」
節子が小さくうなずくと、西村は更に大きな声で笑い、節子の肩を叩いた。
「いいことじゃ、いいことじゃて。確かにまあ、煙草は体に悪いもんなんじゃが……それでも、こうして体験することは悪いことじゃとは思わん。やってみて、駄目じゃと思ったらやめる。それでいいんじゃて」
「いや、それはちょっと、違うような」
「そうかのぉ。わしは人生を楽しむとは、そういうもんじゃと思っとるぞ。まぁおかげで、痛い目にもあってきたんじゃがな」
「全く……
「ほっほっほ」
花壇の前で煙草を吸う三人。
その中で節子は、ここに来て初めてと言っていいぐらい、自然な表情で花をみつめ、煙草を吸っていた。
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