第100話 そばにいて


 煙草を吸いながら、西村と生田は会話を続けていた。

 節子は間に入り、二人の会話を黙って聞いている。

 煙草がなくなり、西村がどうする?と聞くと、照れくさそうにうなずき、煙草を受け取り火をつけるのだった。


「……それでどうじゃ?節子さんあんた、ここは気にいったかいの」


 西村の直球に、生田は少し困惑気味の表情を浮かべた。

 節子は無言でうつむき、白い息を吐いた。


「あんたがここに来て二週間ちょっと……初めに比べれば、だいぶ落ち着いてきたみたいじゃがな。その様子を見るに、このあおい荘はあんたにとって、まんざら悪い場所じゃないのかのって思っておった」


 そう言って高らかに笑い、西村が続ける。


「ナオ坊たちは、合格かの?」


「……」


「に、西村さん……」


「生田さんや、今ここにおるのはわしらだけじゃ。節子さんもな、そんなに警戒せんでええ。ありのままで構わんのじゃ。

 のぉ、節子さんや。わしはの、あんたが来てから、それなりにあんたの様子を見ておった。何をおいてもナオ坊と一緒にいて、何を聞いても『そばにいて』の一点張りじゃ。話にもならんかった。あおいちゃんたちには暴力ばかりで、近寄ることすら許してくれん。

 初めの内は、ナオ坊が言っとったように、あんたは病気になっとるんじゃと思っておった。じゃがな……ずっと見ている内にの、少しじゃがあんたのこと、分かってきたように思えるんじゃ。

 確かにあんたは、極度の緊張と人間不信、そして依存の気持ちが大きい。見る者が見れば、それは立派な心の病じゃ。むろん、そうなったのには理由がある。

 あんたは血が詰まって、一時的に記憶が混乱した。それが元で入院して、気が付いた時には拘束されていた……自分の身に何が起こったのかもよく分からないまま、絶望したことじゃろうて。そしてそうしたのが可愛い我が子だと知って、何も信じられなくなった。

 そのまま施設に入れられ、あんたは多分、地獄に放り込まれたような気持ちになったことじゃろう。

 じゃがな、ここでのあんたを見とるとな、そういう症状が出てない時があるように見えるんじゃ。でもあんたは、相変わらずナオ坊を独占し、ナオ坊を疲弊させておる。

 つぐみちゃんやあおいちゃん、菜乃花ちゃんに対してもそうじゃ。あんたはあの子たちが近付こうとすると、必要以上に威嚇して、暴力をふるう。それを見てての……わしはあんたが、あの子たちをわざと困らせて、怒らせようとしてるように感じたんじゃ」


 西村の言葉に、身じろぎもせず節子うなだれていた。


「西村さん、あんた……見るところはちゃんと見てるんですね」


「と言うことは生田さん、あんたも気付いとったんかいの」


「え、ええ……私の場合は、仕事柄と言うか……人の心の動きを見る癖がついていましたので……節子さんが何を考え、何を求めているのかは分からない。ですが……今西村さんが言われたことは、私も感じていました」


 節子がその場から逃げ出そうとした。しかしそれを、西村が制した。


「節子さんや。少なくとも今のあんたは、わしらが言う所のいい状態の筈じゃ。勿論……こういうのはスイッチみたいなもんじゃと聞いたことがある。急にスイッチが入っておかしくなってしまう。じゃが少なくとも、煙草を吸って笑っていたあんたは、まぎれもなく本当のあんたの顔じゃった」


「戻る……部屋に戻る……」


「まあそう言いなさんな。ここにはくたびれた年寄りが三人いるだけじゃ。ここでの話は、わしらだけの秘密じゃて。のぉ生田さん」


「ええ、その通りです。直希くんたちにもこのこと、伝える気はありませんよ。こういうことも、彼らが自分で気づいていかなければ意味はないですからね……心配しなくていい。ここの話は、ここだけのことです」


 そう言って生田が再び煙草を差し出すと、節子は観念したようにうなずき、煙草を受け取った。


「要するに、こういうことじゃ。あんたは今、このあおい荘が信用出来る場所なのか、それを見定めておるんじゃ。スタッフやわしらのこともの。

 どれだけ綺麗な言葉を並べられても……そしてどれだけ笑顔を向けられても、あんたは信じることが出来なくなってしもうた。いつまた、病気が再発するかもしれんのじゃ。そうなった時、またあの地獄のような場所に戻されてしまうのかもしれん。そう思うと、とてもわしらのことを信じられないんじゃろう。無理もない。あんたにしてみれば、一番信頼してた娘にまで、裏切られた気分なんじゃろからな。

 じゃがな、わしらも深くは聞いてないがの、娘さんを責めるのは間違っとるぞ。娘さんは医者でも何でもない。知識もまるでない。そんな娘さんが、いきなり訳の分からんことを言って暴れる母親を見たら、入院もさせるし施設にも入れる。当然のことじゃ。一人でそんな状態の人間を背負うなんてこと、出来る人間の方が少ない。

 じゃが、それでもあんたのことを思うからこそ、入院させてよくなることを望んだ。施設に入ることで、少しでも状態が落ち着くことを望んだのじゃ。残念ながら、あんたがよくなることはなかったが、それは娘さんのせいじゃない。何より娘さんは、前の施設でのあんたを見て、見るに耐えられなくなって別の施設を探し、ここにたどり着いたんじゃないかの?いい娘さんじゃと思うぞ、わしは」


 その言葉に、節子が小さくうなずいたように見えた。


「それでもあんたは、ここに対しても警戒しておった。いつまた、あの地獄のようなことになるかもしれん。今は笑顔を向けてくれているが、いつまた裏切られるか分かったもんじゃない。それも分かる。初めて会った人間じゃ。あんたが信用出来んのも分かる。

 じゃからわしは聞いてみたいんじゃて。ここは合格かいの、とな」


 そう言うと煙草に火をつけ、煙で輪っかを作りながら「ほっほっほ」と笑った。


「それにあんた、ナオ坊にいつも『そばにいて』と言っとるがの……それは今の状態のこと、ではないの」


「……」


「あんたはいつも、ナオ坊にしがみついとる。誰が見てもナオ坊は、あんたのそばにおる。じゃがあんたは、いつまで経ってもナオ坊に『そばにいて』と言っておる。変な話じゃのぉ」


「……」


「じゃがな、そう思っての、わしも考えてみたんじゃ。そして答えらしき物にたどり着いた。わしもの、昔はそう思っとったとな」


「西村さん……あんた……」


「こう見えてわしにもな、昔は嫁っこがおったんじゃ。それはもう美人で気立てのいい嫁での、わしはベタ惚れじゃった。こんないい女が、わしの嫁になってくれた。わしはこの人と添い遂げたい、そう思ったもんじゃった。

 じゃがな、わしは彼女の為と思って、彼女をないがしろにして仕事に没頭した。寂しそうにしてることに気付いてもいたが、家に帰るとずっと彼女のそばにいて、優しくしたつもりじゃった。彼女も嬉しそうに笑ってくれていた。じゃが……それはわしの勝手な思い込みじゃった。誰も知らないことなんじゃがな、嫁は浮気しとったんじゃ」


「え……西村さん、それは本当なんですか」


「ほっほっほ。生田さんや、これはここだけの話にしてくれるかの。わしはな、嫁のことを悪く思われたくないんじゃよ。じゃからこのことは、誰も知らないことなんじゃ」


「……そうだったんですか……いや、勿論です。ここだけの話ですから」


「結局、いくらそばにいたとしても、心が離れていてはどうにもならんのじゃて。わしは……嫁の不貞に気付いたが、知らないふりをした。子供もおそらくは、わしの子ではなかったはずじゃ。

 じゃがわしは、生まれて初めて心を奪われた嫁の為、嫁に振り向いて欲しい一心で、必死になって働いた。今よりもっといい生活が出来れば、きっと嫁の心を振り向かせることが出来る、そう信じてな」


「……西村さん、あんたって人は」


「ほっほっほ。もう昔の話じゃて。それで話を戻すが、節子さんや。あんたが望んでるのはどういう意味なんかいの」


「……」


「そばにいてほしいのは、今のようにずっとナオ坊をはべらせておくことなんかの。それとも、自分のことを心から思い、大切にしてほしい、そういうことなんかいの」


 その言葉に、最後の白い息を吐いた節子が煙草を揉み消し、小さく笑った。


「分かっとるんならいい。それなら……これからのナオ坊たちのこと、見守ってやらんとの。ほっほっほ」


「西村さん……今日ほどあんたにかなわないと思ったこと、ありませんよ、私は」


「ほっほっほ。わしはただの、気ままな遊び人じゃて」


「全く……あんたって人は……」


「ほっほっほ」

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