第98話 引きずりこまれるADL


「男前が上がってきたわね、直希」


 食堂で節子とテレビを見ている直希に向かい、つぐみが意地悪そうに声をかけた。


「そういうつぐみこそ、可愛い顔してるな」


 互いの目の隈を見合って、二人が笑った。


「お互い、いい感じの顔になってきたな」


「そうね。流石に寝不足だわ、私も」


 そう言って小さなあくびをするつぐみを見て、直希が穏やかな笑みを浮かべた。


「何?」


「あ、いや……お前がそんな無防備にあくびするなんて、ここが本当にお前の家になったんだなって思ってな」


「忘れなさい」


「やなこった」


「ふふっ」


「ははっ」





 節子が来て二週間が過ぎた。


 最初の頃に比べて、節子の暴力行為は落ち着きつつあった。あおいや菜乃花が近づいてきても、あまり警戒もしなくなっていた。

 節子の目に、このあおい荘がどういう風に見えているのか、それは直希にも分からない。ただ直希は、ありのままを見せ続けることで、節子の心を少しずつ溶かしていきたい、そう思っていた。


 前の施設で処方されていた精神安定剤も、東海林先生の許可をもらって全て止めてもらった。その結果、しばらく不穏な状態が続き、あおいたちへの暴力が続いた。しかし直希は、投薬なしでこの問題に立ち向かいたい、そう強く思っていた。勿論、あまりに暴力が続くようであれば、そして直接被害にあってしまうあおいや菜乃花がそれを望めば、考えを変えることも忘れずにいた。

 しかし二人は言った。


「どうしてもその……節子さんに薬が必要でしたら、それは仕方のないことだと思います。私は医療の知識がないですし……でも、東海林先生も必要と考えてないんですよね。でしたら私は、直希さんの意見に賛成です。確かにその……引っかかれたりつねられたりするのは嫌ですけど……でも、私は直希さんのことを信じてますから」


「大丈夫です。最近、髪の毛を引っ張られるのも慣れてきましたです。つかまれないように避けるのも、うまくなってきましたです。それに節子さんも、最初と違って力を抜いてくれているような気がしますです。ですよね、節子さん」


 そう言って近付くあおいの髪を、節子がまたつかんで引っ張った。


「ひゃっ……痛い、痛いです節子さん……おかしいです、今のはちょっと本気モードです。節子さんひょっとして、怒っちゃいましたですか」


 そう言って笑う二人に、直希は感謝の気持ちしかなかった。


「ありがとう菜乃花ちゃん、あおいちゃん。二人に応える為にも、俺も頑張るからね」


「はいです。どうか直希さんも、体を休めてくださいです」


「あのその……少しでも寝てくださいね、直希さん……」





 節子は夜になっても、直希から離れなかった。それでもつぐみが厳しく言うと、しぶしぶ自分の部屋に入っていった。

 だがそれも束の間、夜になると徘徊が始まるのだった。

 深夜遅くまで、節子が廊下を徘徊する。時折直希の部屋の扉を叩き、直希を起こそうとする。


 歩行に問題がないとは言え、消灯した廊下、それも一人での徘徊となると、転倒の恐れも考えなければいけない。

 徘徊を止められるのは直希だけだが、それでも直希も睡眠をとらなければいけない。

 そんなジレンマに陥りながら、直希は浅い眠りを繰り返し、気になれば起きて節子に付き合ったりもしていた。

 つぐみも同様で、そんな直希に付き合う形となり、二人の睡眠不足は限界に来ていた。


「これじゃあ、二人共持たないよな」


「そうね……でも、深夜に徘徊している入居者さんを放っておく訳にもいかないし」


「二人で一日交代にしても、結局気になって眠りも浅くなるしな」


「節子さんが疲れて寝るまでだから、その日によって違うし……ふわぁ」


「ははっ、かわいいあくびだな」


「忘れなさいって言ったわよね」


「節子さんの件が落ち着いたら、あおいちゃんや菜乃花ちゃんにも言ってやろう。つぐみのあくびはかわいいぞって」


「何よそれ、ふふっ」


「ははっ」


「そろそろ夕食の時間だし、ほら、つぐみも少し休んどけよ。休める時に休んでおかないと」


「そうね……じゃあ悪いけど、一時間だけ仮眠、とらせてもらうわ」


「おう、ゆっくりしてろ……あれ?山下さん?」


 直希の声につぐみが廊下の方を見る。そこには山下が、肩を震わせて立っていた。


「祐太郎さん!あなた、何をしてるんですか!」


 食堂に響く山下の声。その声にあおいと菜乃花も、何事かとやってきた。


「……恵美子さん、どうしたんだい、そんな怖い顔をして」


 山下の言葉に、直希が穏やかに笑いながらモードを変えた。


「どうしたかですって?あなた、妻の前でそんな……別の女性と腕まで組んで、一体どういうつもりなんですかっ!」


「あ、あのその……山下さん」


「菜乃花、今は駄目」


「でも……つぐみさん……」


「や……山下さん……?」


 山下の初めて見る症状に、あおいもショックを受けていた。話には聞いていたが、日頃から可愛がってくれる山下の変わりように、状況が理解出来ずに混乱した。


「あなたのことを信じていたのに……もういいです、その方と仲良くされたらいいですわ!あなたとはこれっきりです!」


 そう言い捨てて、山下が部屋に走っていった。


「つぐみ……悪いんだけど」


「ええ、こっちは任せて。ほら節子さん、直希はちょっとお仕事だから、離してあげて下さい」


「……」


 節子は無言のまま、直希から離れようとしない。直希がふと見ると、肩が少し震えているようだった。


「……大丈夫ですよ節子さん、またすぐに戻ってきますから。その為にも……ね、少しだけ時間、もらえませんか」


 直希が穏やかにそう言うと、節子は力なくうなずき、直希から離れた。


「……じゃあちょっと行ってくるから。節子さんのこと、頼むな」


「分かってるわ。ほら、早くフォローしてあげて」


 つぐみがそう言うと、直希は山下を追って部屋へと向かった。


「……やっぱりこうなっちゃうのよね。悪い予感って、どうして当たってしまうのかしら」


「……つぐみさん、あのその、悪い予感って」


「え……ああそうね、説明するわ……それとあおい、いつまでショック受けてるの。しっかりしなさい」


「あ……は、はいです。でも……あんな山下さん、見たものですから……」


「そうね、あなたにとっては初めてのことだものね。でもね、あなたがこの世界で生きていこうと思うのなら、これぐらいで動揺してちゃ駄目よ。そんなんだと、利用者さんの方が困っちゃうわよ」


「分かってます、分かってます……でも……」


「全く……このお嬢様は」


 苦笑したつぐみが、あおいを抱き締めた。


「辛いわよね、山下さんのあんな姿、見ちゃったら」


「私、私……」


「あおいは……それでいいのかもね……」


 つぐみが、自分に言い聞かせるようにそう言った。


「……でもね、あおい……その気持ちは山下さんにだけ、向けてあげなさい。間違ってもそんな顔、他の人に見せちゃ駄目だからね。前にも言ったけど、私たちにはたくさんの人たちが待っているの。だから……みなさんの前では、いつものあおいになれるよう、頑張りなさい」


「はい……はいです……」


「……節子さんが来ると決まった時に、こうなる可能性についても考えてたの」


「こうなる可能性……ですか」


「ええ、可能性……こういう施設に、極端にADL(日常生活動作)の低い人や、精神状態が不安定な人が入ってきた時に起こりうること」


「……」


「不思議とね、ADLの低い人の方に、他の人たちも引きずられちゃうのよ」


「そんな……」


「逆に、ADLの高い方に引き上げられたらいいんだけどね……残念ながら、そうはいかないのよね……

 でも直希は、引き上げる方に望みを託した。私はそんな事例、ほとんどないって言ったんだけど、直希はそれでも信じたいって」


「じゃあ、これから他の入居者さんたちも……」


「ならない保証はない。でもね、だからと言って節子さんを切り捨てるなんてこと、出来る?」


「いえ、そんなこと、私たちはしません」


「でしょ?私も直希も、こうなることを覚悟していた。他の入居者さんたちを犠牲にしてるみたいって思うかもしれないけど……でもね、これを乗り越えないと、あおい荘はいつまでたっても、みんなが気にいった人しか住めない、ただの仲良し住宅になっちゃうの」


「……」


「だからね、あおい、それに菜乃花も。直希を信じなさい。私がいくら反対しても、直希の決意は揺るがなかった。私が首を縦に振った一番の理由はね……直希が言った言葉。『俺はあおい荘を、つぐみを、あおいちゃん、菜乃花ちゃん、そして入居者さんたちを信じてる。あおい荘は、そんな志の低い場所じゃないし、無限の可能性を持った、これから来る高齢化社会の希望となる場所なんだ』って……そう言ったの」


「直希さん……」


「直希さん……」


「だからね、直希を……あおい荘を信じましょう」


「……はい!」


「はいです!」


「勿論……節子さんも、信じてあげてね」


 そう言って節子の頭を撫でる。節子はうつむきながら、何か思いつめたような顔をしていた。

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