第97話 ゴールは見えてないだけで


「それでその……あおいさんの方はどうですか?節子さんとは最近」


「いえ、全然駄目です。考えてみたら私、節子さんがここに来てから、何も出来てませんです。お話しも出来てませんし、介助の方も何も」


「ですよね……私も全然で」


「でもでも、菜乃花さんが作るお料理は、節子さんも食べてくれてますです」


「ご飯……ですか」


「それだけでもすごいことです。直希さんが言ってましたです。ここに来てから節子さん、体重が増えて来たって。菜乃花さんは節子さんも知らない内に、節子さんの為になることをちゃんとしてますです。それに比べて……私は本当に、節子さんの為に何も出来てませんです……」


「あおいさん……直希さんも言ってましたよ、焦っちゃ駄目だって」


「それはそうなんですけど」


「あおいさん、ここに来た頃のこと、覚えてますか」


「あおい荘に来た頃のこと……はい、勿論です」


「私も言われましたから、あおいさんも言われたんじゃないですか。最初の頃に感じた不安な気持ち、それは人生の大きな財産になるから、しっかり覚えておくようにって」


「そう言えば……はいです、言われましたです」


「あの時の気持ち……初めてする時に感じた不安……でも、いつの間にか出来るようになって、私たちはそれを忘れていきます。でも直希さんが言うように、そのことはしっかり覚えておくべきだって思うようになりました。

 私、人見知りだから、学校でもクラスが変わる度に怖がってました。でもそれが、何か月かした時に消えている。私は……一人がいいけど孤独なのは嫌だから、話しやすそうな人に声をかけたりしてました。でもそれも、クラスが変わったらまた一からで……直希さんの言葉を聞いた時、思ったんです。その気持ちは確かに、すごく大切なことなんだって。次に同じようなことが起こった時、きっと自分の励みになるって。私はあの時の不安も、こうして克服していったんだっていう、自分の自信として。それに……きっと周りの人だって、不安だったと思うんです。だからその……この気持ちを忘れなければ、人に対しても優しくなれるような気がして」


「確かに……そうですね。私も不安な気持ちを忘れなければ、いつか後輩が出来た時に、後輩の不安な気持ちを理解出来るいい先輩になれるよって言ってもらえましたです」


「直希さんって、本当にすごいですよね」


「直希さんは、あおい荘の大黒柱さんですから」


「ふふっ、そうですね」


「ですです」


「だからね、あおいさん。その時の気持ちを思い出したら、節子さんのことも乗り越えられるんじゃないかなって」


「確かに……」


「今はまだ、全く先が見えない状態です。でも、直希さんが言ってたように、やまない雨はない、きっといつか、晴れる時が来る。今の雨空は、青空をより楽しむ為のスパイスなんだって」


「そうですね。節子さんのことも、これまでのようにきっと、乗り越えられる日が来ますです」


「私もそう信じてます」


「それはひょっとしたら、明日かもしれないです」


「明日……はちょっと、無理かもだけど」


「いえ、そうかもしれないです。直希さんが言ってましたです」


「直希さんが、ですか」


「はいです。直希さん、こう言ってましたです。人間の目に一番近いのは眉だって」


「眉……確かにそうですね」


「でも人の目は、その一番近い眉さえも見えないって」


「……」


「人間はそれぐらい、何も見えてない存在なんだって。だから実は、自分に見えてないだけで、もう少しでゴールなのかもしれないって言ってくれましたです。菜乃花さんの時に」


「私の時に……ですか」


「あ……ごめんなさいです、変なこと言っちゃいましたです」


「いえ……直希さん、私の時にそんなこと、言ってくれてたんですね……嬉しいです……」


 菜乃花がそう言って頬を染めた。


「菜乃花さん、本当に幸せそうにしますですね」


「え……」


「直希さんのことを話す時は、本当に嬉しそうです」


「そんな……」


「そうでした菜乃花さん、思い出しましたです!前につぐみさんが言ってたこと、本当なんですか」


「え……な、何のことですか」


「菜乃花さん、直希さんに告白しましたですか」


「ひゃっ……あおいさん声、声落としてください」


「あ……ごめんなさいです。でも私、あれからずっと気になってましたです」


「……本当です。私、直希さんにその……好きだって言いました」


「直希さんは何と」


「……あおいさん、そんなに食いつかないで欲しいんですけど」


「あ……ごめんなさいです。でも菜乃花さん、直希さんとお付き合いされてるのかなって思って。もしそうなら私、全然気付いてなかったので」


「……振られちゃいましたよ、私」


「……そうなん……ですか」


「はい。言い訳も出来ないぐらい、はっきりと断られました」


「……理由を聞いてもいいですか」


「私のこと、女の子として全く見てくれてませんでした。それに……直希さんの心には、別の女の人がいるようでした」


「ええええええっ?本当ですか菜乃花さん」


「だから……あおいさん、声が大きいですって」


「あ……ごめんなさいです」


「誰かは分かりませんでしたけど……でも確実に、直希さんの中に女の人が存在してる、それは分かりました」


「……直希さんの中に、女の人が……」


「あおいさんあおいさん、どうしてそんな難しい顔を」


「え?私、難しい顔、してましたですか」


「それはもう、この世の終わりみたいな顔で……と言うか、あおいさんも直希さんのこと、好きなんですよね」


「えええええええええっ?菜乃花さん、なんでそのことを」


「あ……今度はちゃんと動揺してくれるんですね。いつもみたいに『はいです。私は直希さんのこと、大好きです』って言う物だとばかり」


 菜乃花の言葉に、真っ赤になったあおいが両手を頬に当て、テーブルに額を擦り付けて身悶えた。


「恥ずかしいです……菜乃花さん、恥ずかしいです」


「ふふっ……よしよし」


 菜乃花があおいの頭を優しく撫でる。


「その反応……あおいさん、本当に直希さんのこと、意識しちゃったんですね」


「……私にも……まだよく分からないんです……だって私、男の人のことを好きになったことなんか、ありませんでしたから……」


「と言うことは、これがあおいさんの初恋……なんですね」


「そうなん……でしょうか……でも私、本当に分からなくて……

 ただ、最近直希さんのことを考えると、体が熱くなるんです……胸がドキドキして、苦しくて……」


 それが……恋なんですよ……私もそうですから……そう思った菜乃花だったが、その言葉を飲み込んだ。


 その答えは、あおいが出さなくてはいけない。人によって決められてはいけない大切なことなんだ……そう思いながら、優しい視線をあおいに注いだ。


「どちらにしても……今は節子さん、とにかく節子さんのことです。もうすぐ12月、クリスマスもありますし、お正月も待ってます。それまでにこのあおい荘を、みんなが笑顔で過ごせる場所に戻さないと」


「……そう、ですね。はいです、そうです。今は節子さんのことです。それにこのことが解決したら、あおい荘はきっと、前より笑顔いっぱいの場所になる筈です」


「あおいさん、頑張りましょう」


「はいです。菜乃花さん、一緒に頑張りましょうです」

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