第96話 怯える者の武器


「はあ……」

「はあ……」


 あおいと菜乃花が、食堂のテーブルで洗濯物をたたみながら、同時に大きなため息をついた。

 そのタイミングのよさに二人、顔を見合わせて笑った。


「なんですか菜乃花さん、大きなため息でした」


「あおいさんこそ、ふふっ……」





 大西節子が越してきて一週間が経っていた。


 彼女との邂逅は二人にとって、あまりに衝撃的なものだった。


 このあおい荘で介護の世界に触れ、憧れた。

 人の為に働くことの喜びを知った。

 勿論、楽しいことばかりではない。

 辛いこともたくさんあった。哀しい出来事も多く経験した。

 慣れない仕事に、体中の筋肉が悲鳴をあげることもあった。

 でもそんな中で、彼女たちは一つのことを学んだ。


 ーー真剣に向き合えば、必ず分かり合える。


 それは直希から学んだことだった。

 彼女たちはそのことを信じ、頑張ってきた。

 菜乃花に至っては、介護の問題ではなかったが、学校で自身をいじめてきた吉澤玲奈との和解が、その言葉に確信を持たせていた。

 あおいもここでの生活を通じて、いつか父とも分かり合える時が来る、そう思えるようになったのだった。


 しかしここに来て、彼女たちはその言葉が間違いないのだろうかと、疑問に思うようになっていた。


 大西節子。


 彼女が来て一週間になるが、あおいも菜乃花も、全くコミュニケーションを取れずにいた。


 節子は四六時中、直希にしがみついていた。

 直希が何を言っても、何を聞いても「そばにいて、そばにいて」と連呼するだけで、彼女が何を思い、何を望んでいるのか、全く分からない状態だった。

 おかげで直希は、仕事らしい仕事が出来なくなっていた。

 いつも節子がくっついているので、満足に話も出来ない。

 いつもなら疑問に思うこと、悩んでいることを真摯に向き合って聞いてくれ、答えてくれた。仕事のことでも、道筋を示してくれた。

 その直希と会話出来ないことは、二人にとってかなりのストレスになっていた。


 直希が自由になるのはトイレや入浴の時ぐらいで、それですら最初の内は、節子を説得するのに骨が折れた。





「だからね、節子さん。ちょっと、一瞬だけだからね。おトイレに行くだけだから」


「そばにいて、そばにいて」


「いてあげますよ。でもね、流石に俺も、トイレまでは我慢出来ないんです。一緒に入る訳にもいかないし。だからちょっとだけこの手、離してくれませんか」


「そばにいて、そばにいて」


「いい加減にしなさい、節子さん」


「おう、つぐみ。悪いけどちょっとだけ、任せてもいいか」


「全く……直希も直希よ。そりゃ勿論、考えがあってのことだと分かってはいるけど……それにしてもちょっと好きにさせすぎよ。そんなことでどうするのよ」


「ははっ、面目ない」


「ほら、節子さん。そのままだと直希が、ここで漏らしちゃうでしょ。さっさと離れて」


「……」


「いいから離れなさい」


 つぐみの厳しい言葉に、節子がゆっくりと直希から手を離した。そして食堂にいた生田の元に走ると、隣に座った。


「助かったよ」


「なんであの人は……男の人にしか近寄らないのかしらね。と言うか、ここでは直希と生田さん、それと不思議だけど西村さん。栄太郎さんには近寄らないのにね」


「まあじいちゃんには、ばあちゃんがいてるからな」


「その辺のことは分かってるのかしらね。ほら、それよりさっさと行って来たら?ここで漏らしても、掃除なんかしてあげないわよ」


「ははっ、そりゃそうだ」


 そう言って笑うと、直希は部屋の中へと入っていった。


「あの……つぐみさん?」


「あら菜乃花、それにあおいも。どうしたのかしら」


「いえ、その……私、節子さんが言うことを聞くところ、初めて見ちゃったので、その……」


「なるほどね、技を伝授してほしい訳ね」


「いえ、その……伝授っていうか」


「ですです。どうしてなのか、私も気になりましたです。何かコツでもあるのでしょうか」


「残念だけど、そんな物はないわよ」


「そうなん……ですか?」


「ええ。私もよく分かってないんだから。まあでも、あるとしたら」


「あるとしたら?」


「あの人……節子さんはね、人のことを全く信用出来なくなってしまった。娘さんのことは……分かってはいるみたいだし、娘さんから何かされた訳じゃないから、一応信用はしてると思う。

 でもね、他の人のことはまるで信じていない。恐らくだけど……前の施設で、何かしらされていたように思う。節子さんの体、お父さんに診てもらったんだけど、あちこちに内出血の跡があったの」


「それってまさか……虐待、なんですか……」


「いえ、そうとは限らない。そうでないことを祈ってる。でもね、直接的な暴力でなくても、高齢者の方は簡単に内出血とかになっちゃうの。例えばね」


 そう言って、つぐみがあおいの腕を少し強めに握った。


「ひゃっ……な、なんですかつぐみさん」


「どう?痛い?」


「いえ、痛くはないですけど……ちょっと怖いです」


「怖いのはともかくとして……高齢者の人たちはね、これだけでも内出血するのよ」


「……そうなんですか?」


「年を取っていけばね、皮膚も血管ももろくなっていくの。皮膚が破けることだって普通にある。だからね、私たちの基準で利用者さんたちの体を、触ったりつかんだりしてはいけないの」


「……」


「言うことを全く聞いてくれない。あっちに行きましょうと言っても聞いてくれない。限られた時間の中で、他の利用者さんもいる。自分がしなければいけないことは山ほどある。そう思うとね、ついつい力任せに、言うことを聞かせようとしてしまう。乱暴に腕をつかんで連れて行こうともする。そんなことの積み重ねが、彼女の体を傷だらけにしたんだと思う」


「……悪意がなくても、虐待はあるってことですね」


「だからね、あおい、菜乃花。介護って大変よ。私たちの基準なんて通じないんだから」


「……勉強になりますです」


「まあ、そんなこんなで、節子さんは人のことを信じられなくなっている。いつ傷つけられるか分からない、そんな風に警戒するようになった。でもね、そういう人にはね、ある種の能力が身につくの」


「人を見ること……ですか」


「さすがね菜乃花、その通りよ」


「私がそう、ですから……」


「そうね、菜乃花にならちょっと分かるのかもね……節子さんは、自分が傷つけられない為に、人を見る目を養っていった。本能って言っていいのかもしれない。そしてそんな中で直希と出会い、この人は自分のことを大切にしてくれる、そう直感したんだと思う。まあ、男ってのもあるんだけどね」


「どうして男の人ならいいんでしょうか」


「それだけがね、全く分からないのよ。実際あの傷だって、男の人につけられた物もあるはずなんだけどね」


「不思議です。本能なんでしょうか」


「どうなんでしょうね。まあそれはともかくとして、直希に対してはそういうこと。そして私なんだけどね、どうも節子さんにとって、私はここのあるじみたいに見えてるみたいなの」


「つぐみさんが、ですか」


「ええ。何だろう……複雑な感じなんだけどね。あの人と会った時もそうなんだけど、私は直希に何度も強い口調で話してるの。それを節子さん、ずっと見てたわ。直希ってほら、私が強く言ったら謝ったりするじゃない?そういうのを見ててね、私は直希より上の立場で、私を怒らせたら、直希とも離されちゃう、そんな風に思ってるみたいなの」


「なるほど……納得です」


「納得しないの」


「いたたたたっ……痛い、つぐみさんほっぺ痛いです……」


「そう考えたら、あなたたちのことを警戒してるのも、分かる気がしないかしら」


「え……それってどういう」


「あなたたちが直希にとって、どういう存在なのかってことよ」


「え?」


「今の節子さんにとっては、人に対する態度全部、直希基準だと言っていい。そんな中であなたたち二人は、出会った瞬間に暴力を受けた」


「はい……」


「節子さんにとってあなたたちはね、敵ってことよ」


「敵……」


「まだ分からない?あなたたちが直希のことを好きだってこと、節子さんは分かってるのよ」


「え……」


「ええええええええええっ?」


 その言葉に、菜乃花が顔を真っ赤にしてうつむいた。あおいも、耳まで赤くして声を上げた。


「ななな、なんでそうなるんですかつぐみさん」


「なーに驚いてるのよ。あおいも前に、私に言ったでしょ。直希のことが好きだって」


「わっわっわっ、つぐみさんつぐみさん、こんな所でやめてくださいです」


 その反応に、直希に対するあおいの気持ちが大きく動いている、そうつぐみは感じた。


「私が……直希さんを……」


「菜乃花はちゃんと、直希に告白したことだし」


「ええええええええええっ?菜乃花さん菜乃花さん、それ本当なんですか」


「つ、つぐみさん……恥ずかしいからやめてください……」


「菜乃花さん菜乃花さん、本当なんですか」


「あおいさんも……もぉー、やめてくださいって」


「ふふっ、ごめんなさいね二人共。でもね、そういうことなのよ。だからあなたたちが節子さんと心を通わせることは、ある意味私より大変だと思うわよ」


「そ、そんなぁ……」


「頑張りなさい、二人共」

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