第95話 不穏な空気


 あおい荘の食堂は、これまでにない緊張感に包まれていた。


 昼食時、気を取り直したあおい、菜乃花と共に、つぐみも慌ただしく動き回っていた。

 直希は節子にしがみつかれたままで、身動きがとれなかった。やむを得ずテーブル席に座って辺りを見渡すと、入居者たちの心配そうな視線を感じたのだった。


「……と言うことで、この方が今日からあおい荘に入居されてきた、大西節子さんです。そしてこちらが、娘さんの安藤美智恵さん」


「あ、その……みなさん、母がこれからお世話になります。ご迷惑をかけることが多いかと思いますが、母はその……本当はとても穏やかで、優しい人なんです。ここに住まわせてもらうことが決まって、私も本当に嬉しく思い、そして感謝しております。どうか、どうか……母のこと、よろしくお願い致します」


 そう言って、頭を深々と下げた。


「安藤さん……ですね、こちらこそよろしくお願いします」


 栄太郎が安藤に向かい、そう言って頭を下げた。


「私はそこの直希の祖父、新藤栄太郎です。そしてこっちが妻の文江です。孫からある程度のお話はうかがっております。ですがどうか、頭をお上げください。

 私たちも……決して褒められるような人間ではありません。お互い事情は異なりますが、しかしここの管理人である孫と、そしてスタッフさんたちが、節子さんなら大丈夫、あおい荘の一員になれると自信を持って決めたことです。ですから……孫たちを信頼して、安心してお母さんを預けてください。勿論、私たちも全力でサポートしますので」


 安藤への見事な挨拶に、文江が信じられないような顔で栄太郎を見た。


「おじいさん……どうしたんですか、急に」


「何か……変だったかね」


「いえ、その……おじいさんが余りにまともなことを言ってるものですから、ちょっと驚いちゃって……何か変な物でもつまみ食いしました?」


「ひ、ひどいな、ばあさん……」


「うふふふっ。でもちょっとだけ、惚れ直しましたよ」


 二人の笑顔に、入居者たちの緊張も少し解けたようだった。


「ほら、お母さんも……みなさんにご挨拶してください」


「……」


「え……何ですか」


 節子は直希にしがみついたまま、ぶつぶつと何かつぶやいていた。安藤が顔を近付けると、怯えるように更にしがみつき、直希に向かって言った。


「そばにいて……そばにいて……」


「ええ、今日は節子さんの歓迎会ですからね。節子さんがそう望まれるなら、今日は一日節子さんのそばにいますよ」


「そばにいて、そばにいて」


「大丈夫ですよ。初めての所だから、怖がってるのかもしれませんが、今日からここが節子さんの家ですからね。それにここには、節子さんに何かする怖い人もいません。だから安心してください」


「そばにいて、そばにいて……」


 直希が何を言っても、節子は同じ言葉を繰り返すだけだった。そんな節子の様子に、あおいと菜乃花は不安そうな眼差しを直希に向けた。


「ほら、あおい、菜乃花。手を止めないで頂戴。節子さんのことは直希に任せて、今は昼食の準備に集中して」


「あ、はい。すいません、つぐみさん」


 つぐみの言葉に、あおいも菜乃花も慌てて返事した。





 昼食が終わってからも、節子は直希から離れようとしなかった。

 そんな母親に、安藤が何度か近寄って声をかけたのだが、その度に直希に体を寄せ、腕を振って安藤を威嚇した。

 食事はやむを得ず、直希が介助した。話によると、施設に入ってから節子の摂取量は日に日に少なくなっていき、栄養補助飲料に頼るようになっていたらしい。だが節子は、直希が差し出すものを全て口に入れ、完食したのだった。

 その様子に、安藤もほっとした様子だった。


 しかしそれとは対照的に、入居者たちは微妙な顔つきをしていた。

 そういった空気を察知したつぐみたちは、節子を直希に任せ、他の入居者たちのテーブルに行き、声をかけていたのだった。


 特に違和感を感じたのが、山下の様子だった。最初の顔合わせでは穏やかな笑みを向けていたのだが、直希から一向に離れようとしない節子の様子に、徐々に苛立ちを見せ始めていた。

 あおいたちが何度も山下に声をかけ、ブログのことや映画の話で気をそらせようと試みたのだが、山下は上の空と言った様子で返すだけで、視線は節子から動かなかった。


「ちょっとあなた、大西さんと言いましたよね」


 ついに山下が立ち上がり、節子に言葉を投げた。

 しかし山下の言葉にも、節子は全く反応を見せず、ただただ直希にしがみついているだけだった。


「ちょっとあなた!聞こえないのかしら。大西さん、大西さん!」


「ああ、山下さんごめんね。さっきも言った通り大西さんはね、苗字だと全く反応してくれないんですよ。だから節子さんを呼ぶ時は、名前で呼んであげてほしいんだ」


「全く……節子さん、大西節子さん!」


 その言葉に、節子が山下に視線を移した。


「あなたね、今しがみついている人、誰だか分かってるのかしら。その人はここの管理人で、私たちみんなが信頼を寄せている大切な人なんです。そんな風にあなたが独り占めしていい人なんかじゃないんです。それに見てごらんなさい。あなたのおかげで直希ちゃん、お昼の仕事、何も出来てないじゃないですか」


「あ、いや……山下さん、それは」


「山下さん、山下さん。直希さんも言ってましたけど、今日は節子さんの歓迎会ですし、少しだけ我慢してほしいです」


「でも……あおいちゃんも、それでいいの」


「はいです、私は大丈夫です」


「そうですよ山下さん。ほら、紅茶でも飲んで落ち着いてください。菜乃花、山下さんに紅茶、お願い出来るかしら。ほらあの、山下さんの一番好きなやつ」


「あ、はい……分かりました、すぐに用意します」


「みなさんにもコーヒー、お願いね」


「分かりました」


「でもね……ああして直希ちゃんを独り占めされてると、どうにもイライラしてくると言うか」


「山下さん、ありがとうございます。俺なら大丈夫ですから、心配しないでくださいね」


「……直希ちゃんがそう言うのなら……別に構わないんだけど……」


「本当に申し訳ありません」


 そう言って頭を下げる安藤に、生田や小山が「気にしないでください」と声をかけた。


「節子さんの状態も落ち着いてきたみたいですし……安藤さん、後のことは任せてくださって大丈夫ですよ」


「あ、はい……ありがとうございます。でもまだ心配ですし、夕食が始まるぐらいまで」


「それはちょっと……」


「……」


「いえ、決して安藤さんがお邪魔だからという訳ではないんです。もし今日お泊まりになると言うのであれば、全然問題ないんですが……ただ、夕方になってからだと節子さん、今より状態が悪くなりますし、出来ればその前に帰っていただいた方がいいかと」


「夕方、ですか」


「ええ。入居者さんの多くは、夕方の4時ぐらいから……そうですね、6時7時ぐらいまでが、一番不安定になる物なんです。夕暮れ症候群、とでも言ったらいいですかね。陽が落ち始めると、急に不安になるんです。

 グループホームでも恐らく、みなさんそうだったと思います。一番帰宅願望が強く出る時間帯なんです。何て言うか、本能みたいな物なのかもしれません。その時間帯を過ぎると、今度はここに泊まりたいんだけど、私の寝床はありますか?と逆のことを訴えるようになってきます。だからそうなる前に、安藤さんには帰っていただいた方が」


「なるほど……夕暮れ症候群、そんなものがあるのですね……分かりました。ではおトイレに行く振りをして、こっそり帰らせていただきます」


「いえ、その必要はありませんよ」


「え?」


「おそらく安藤さん、前の施設でそういう風に言われてたんですよね。今から帰りますと言うと、入居者さんが一緒に帰ると言って困りますって」


「ええ、そうです……私が帰ってから、不穏な状態が続いてしまって大変だと。だから帰る時は気づかれないように、何も言わずそっと帰ってほしいと」


「ここではそういうの、必要ないですから。仮にそれで節子さんの状態が悪くなったとしても、そういう騙すようなこと、ここではしないでほしいんです」


「新藤さん……」


「介護にも、色んな意見があります。俺が言ってること、現場としては無謀なことかもしれません。ですがこのあおい荘では、そういうことをしたくないんです。俺は基本、真正面から節子さんとぶつかりたいんです」


「新藤さん……ありがとうございます」


「それと、俺のことは直希でお願いします。節子さんにもそう呼んでもらえるよう、頑張りますね」


 そう言って笑う直希の顔に、大西は涙ぐんで微笑んだ。


「分かりました、直希さん……母をどうか、よろしくお願い致します……

 お母さん、それじゃあ私、帰るからね。また近い内に顔を出すから、それまでみなさんと仲良くしててね」


 そう言って節子の頭を撫でる。節子はその仕草にも無反応な様子で、直希に「そばにいて、そばにいて」と繰り返していた。


「それじゃあみなさん、母のこと、よろしくお願い致します。それから……風見さん、小山さん。母がしたこと、どうか許してあげてください。本当に申し訳ありませんでした」


「いえいえ、そんなそんなです。大丈夫ですので、どうかお気になさらないでくださいです」


「私も、その……ちょっとびっくりしちゃっただけですので」


「ありがとうございます……では、失礼します」


 そう言って深々と頭を下げると、もう一度節子の顔をみつめ、安藤は帰っていった。

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