第93話 あおいの涙


「お父さんの診察では、軽度の認知症ではあるけども、あおい荘への入居は可能ということだった。勿論、暴言や暴力もまだ続いているし、周りの人間に対してかなり警戒心を持っている。でもね、元々の原因だった脳血栓も完治してるし、今もあのような状態が続いているのは、別の要因だろうって言ってた」


「別の要因……ですか」


「断定は出来ない。でも恐らくは、血栓によって一時的に記憶が混濁した時に、周囲の人の対応が怖かったんだろうって言ってた。自分では何が悪いのか分からない。自分はいつも通りのはずなのに、周りが自分のことを警戒し、無理やり入院させた」


「それって……あのその、つぐみさん。以前山下さんに症状が出た時に言ってたことですよね」


「よく覚えてたわね、菜乃花。そう、一時的に記憶が混濁した時こそ、周囲の人間の対応が大切なの。勿論、全ての事例に当てはまる訳じゃない。でもね、あの時の山下さんもそうだったけど、自分がおかしくなっているって自覚は、本人には全くないの。なのに周囲が自分の行動を否定して、おかしな人間扱いをする……そうすると、症状がどんどん悪化する、そういうこともあるの。

 娘さんを責めるつもりはないわ。だってそんなこと、私たちのようにこの仕事をしてる人間でも困惑するのに、その知識もない娘さんが、いきなり豹変した母親を見てしまったら、仕方ないと思うの。

 でもね、大西さんはショックを受けた。何も悪いことはしていないのに、娘に無理矢理入院させられた。人間ってね、自由を束縛されると、それを取り戻そうとするの。彼女は病院でも暴れた。ここから出せ、そう言って訴えた。周囲の人から見れば、それはかなり危険な患者に見えたと思う。

 暴言に暴力、隙あらば逃げ出そうとする。だから病院は、やむを得ず拘束した。でもそれは、大西さんの中の何かを壊した」


「……」


「そして次に移されたのが、グループホーム。病院を退院した時、大西さんにも希望があったと思う。これでやっと家に帰れる、自由になれる、そう思ったと思う。なのにまた、見たこともない所に移されて、これからここがあなたの家です、そう言われた。

 大西さん、絶望したと思う。娘さんに、泣いて懇願したらしいわ。でも叶わなかった。その瞬間、また娘さんに襲いかかろうとした。『私をここに捨てる気かっ』そう叫んだそうよ。そんな母親を見て安藤さん、やはり私の母はもういないんだ、母の精神は完全に壊れたんだ、そう思ったそうよ」


「そんな……もう少し、考えてあげてもよかったのでは」


「菜乃花ちゃん、ありがとう。大西さんの為に、そんな哀しい顔をしてくれて。でもね、前にも言ったかもしれないけど、俺たち人間ってのは、一人ではどうしようもないぐらい無力な存在なんだ。それにそういった知識も経験もなければ、そんな状態の大西さんと、また一緒に二人で住むという絵が浮かんでこないと思うんだ。

 娘さん……安藤さんもかなり憔悴していた。大西さんと離れて暮らした三ヶ月で、少しは落ち着いた生活を取り戻したようなんだけど、でも安藤さん自身も、自分は親を見捨てたんだっていう罪の呵責につぶれそうになってるんだ」


「……」


「でも安藤さん、大西さんのことが本当に大切なんだ。もしかしたらまた、元の生活に戻れるんじゃないかって希望も捨ててない。だからこそ、こうしてあおい荘にたどりついたんだと思う」


「その……今、大西さんの状態は」


「安藤さんの訴えで、投薬量も減ったみたいなんだ。だからかなり以前の状態に戻っている。でもね、症状が出始めてからの数ヶ月、病院とグループホームで何もない空虚な生活を強いられていた間に、彼女の中にあった時間の感覚もかなり壊された。自分が何歳なのか、今は何年の何月なのか、そして娘さん、安藤さんが誰なのかもよく分からなくなっている」


「……」


「でも東海林先生は、環境を変えて心のリハビリを続ければ、元に戻る可能性はあるって言ってくれた。だから俺は、大西さんを受け入れたい。そして安藤さんとも、元の穏やかな親子関係を築いてほしい、そう思ったんだ」


「そうなん……ですね」


「でも、暴言暴力が続いているのも事実なんだ。それにその……特に女性に対しては、強い攻撃をしてくるみたいなんだ。反対に男に対しては、過度な依存をするみたいで。それこそ24時間、ずっと離れないレベルで」


「それで直希、大西さんに気に入られちゃったのよね」


「そうなんですか?」


「いや、そんなことは……ってつぐみ、変な所で突っ込むんじゃねえよ」


「はいはい、ふふっ……あとね、直希があおい荘で見ていけるって決断をした理由の一つに、大西さんが外に出られないことがあるの」


「そうだそうだ、肝心なこと忘れてた」


「それってあの……どういうことですか?大西さん、病院でも施設でも、その……外に出ようとしてたって」


「外って言うか、強い帰宅願望かな。でもね、施設の職員が試しに鍵を開けて、『じゃあどこにでも行ったらいいじゃないですか』って言ったことがあるんだって。でも大西さん、いざ扉が開いてしまったら、そこから一歩も動けなくなって、スタッフをつかんで『一緒に行って』って訴えたそうなんだ。

 施設内の徘徊は多い。鍵を開けろと訴える。でもいざ外に出るとなると、誰かが一緒でないと出られないってことが分かった。だからあおい荘に入居したとしても、行けるのは玄関までだと思うんだ」


「そんなことが……あるんですね」


「人の数だけ、症状も違うのよ、菜乃花」


「そう……なんですね……何だか私、よく分からなくなってきました……」


「それで菜乃花、今の話を聞いて、あなたはどう思うかしら。私は正直、余り気乗りがしなかったの。折角あおい荘も落ち着いてきたのに、わざわざトラブルを持ち込まなくてもいいだろうってね」


「え?でも直希さん、反対が一人でもいたら諦めるって」


「つぐみは別。こいつはとにかく俺のこと、まず反対からしか始めないから」


「ちょっと、変な風に言わないでよ。私はただ、客観的に見てるだけよ」


「はいはい、そうだな。でもまあ、つぐみの説得には往生したよ」


「当たり前でしょ。私がいなかったらあなた、トラブルの種を全部拾ってくるんだから」


「それはそれで、酷い言いようだよな」


 そう言って笑い合う二人を見て、菜乃花の心が少し痛んだ。

 二人の間にある強い信頼関係。それはきっと、誰にも立ち入ることの出来ないほど深いものなんだろう、そう思った。


(羨ましいな……)


「それで?菜乃花ちゃんはどう思うかな。心配しなくていいから、思ったままを言って欲しい」


「あ、はい……あの、私は正直、その……大西さんがここに来る事、少し怖いです……このあおい荘はとても穏やかで、みんな仲良しで、まるで本当の家族のような温かさがあると思ってます。だから、その……大西さんが来ることで、みなさんの笑顔が曇ってしまうことが……」


「……だよね」


「でも私、直希さんが決めたのなら、それでいいと思います。私にはその……まだまだ介護のこと、よく分からないことがたくさんあります。人と人との関係も、最近やっと考えてみようと思い出したばかりですし……

 でも直希さんは違います。直希さんは話を聞いて、実際に大西さんとも会って、何か感じるものがあったんだと思います。だから、その……直希さんが決めたことに、私は賛成します。頑張ります」


 菜乃花の力強い言葉に、直希が嬉しそうにうなずいた。


「ありがとう、菜乃花ちゃん。そう言ってもらえて嬉しいよ。菜乃花ちゃんの気持ちに応えるためにも、精一杯頑張るよ」


「は……はい!」


「あおいちゃんはどうかな、今の話を聞いて」


 そう言ってあおいを見ると、頬を流れる涙が目に入った。


「……あおいちゃん?」


「あ……ご、ごめんなさいです直希さん……大丈夫ですので」


「ちょっとあおい、本当にどうしたの?やっぱり少し変よ」


「ごめんなさいですつぐみさん、本当に大丈夫ですので……

 直希さん、つぐみさん。私は大西さんのこと、他人事のように思えませんでしたです。今のお話を聞いて、本当に辛かったです」


「……」


「……私の家、風見家にも昔、大西さんのようになった人がいましたです」


「あおいちゃんの……親族の方?」


「はいです。私のおばあ様に当たる人です。その人は、私が子供の頃に認知症になられて、大変な状態になったと聞いています」


「そうなんだね……それで、おばあさんは施設に?」


「いえ……父様がそれを許しませんでした。風見の家から、そんな人間を出す訳にはいかない、それは風見家の恥になる、そう言って……おばあ様を、離れの小屋に入れましたです」


「……」


「鍵をかけられて、出られなくしてしまいましたです。私たちにも、そこには決して近付いてはいけない、そう厳しく言ってましたです。

 夜になるとよく、離れからおばあ様が叫ぶ声が聞こえてましたです。私、本当に怖かった……結局私は、おばあ様が亡くなられるまで、一度もそこに行かなかったです」


「そうか……あおいちゃん、辛い話を思い出しちゃったんだね」


「私は……私はおばあ様のこと、ほとんど覚えてませんです。でも昔、本当に小さかった頃に、よくお菓子を食べさせてくれましたです。『あおいは本当に、お菓子が大好きだね』そう言って笑って、優しく頭を撫でてくれましたです……」


 あおいの肩が震える。涙が次々と溢れ、止まらなかった。


「そんな優しいおばあ様を、私は見捨てたんです……父様の言いつけだから仕方がない、そう自分を納得させて、逃げてましたです……おばあ様が亡くなられた時、ほっとしている自分がいました……これからは夜になっても、あの声を聞かなくていいんだ、そう思って……私、本当に酷いです……」


「あおい……」


 つぐみが抱きしめると、あおいの震えは更に大きくなった。


「一番酷いのは、今大西さんの話を聞くまで、おばあ様のことを忘れていたことです……私はおばあ様のこと、忘れていたんです……酷い、酷すぎますです、こんなの……」


「あおい……分かった、分かったから……ね、もういいから……」


「ごめんなさいです、おばあ様……あおいは……あおいはおばあ様のこと、忘れてましたです」


「……」


 泣きじゃくるあおいを抱きしめ、つぐみが「大丈夫、大丈夫だから……」そう優しく囁いた。

 直希も菜乃花も、哀しげな表情であおいを見ていた。





「落ち着いた?」


「あ……はいです。ごめんなさいです、私、取り乱してしまいましたです」


「そんなことないよ。俺こそ、辛い話を思い出させちゃって、悪かったね」


「そんなそんなです。直希さんが謝ることなんて、何もないです」


「じゃああおい、落ち着いたところで聞きたいんだけど……と言っても、答えは分かるんだけどね……あなたは大西さんの入居、賛成?反対?」


「勿論賛成です!」


「……よね。でもあなた大丈夫?言っておきますけど、今度入ってくるのは大西節子さんで、あなたのおばあさんじゃないんだからね」


「勿論です、分かってますです」


「……ほんとに分かってるのかしら、この子は」


 そう言って、つぐみが小さく笑った。


「じゃあ菜乃花ちゃん、あおいちゃん。大西さんの入居の話、進めてもいいかな」


「はい」


「はいです」


「ありがとう。後は入居者のみなさんに相談だな。明日にでも一度、話してみるとしよう。安藤さんにも早く結果、伝えたいからね」


「入居者さんなら大丈夫でしょ、直希が言えば」


「そうですよ直希さん。私もそう思いますです」


「みなさん、直希さんのことは信頼してますから」


「ありがとう。じゃあみんな、しばらく大変になると思うけど、大西さんと安藤さんの為にも、一緒に頑張ってください。よろしくお願いします!」


「はいっ!」

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