第90話 無限の選択


「ちょっと理屈っぽくなっちゃったけど、要するに俺が言いたいのはこれ。人生の選択肢なんていくらでもある。ましてや菜乃花ちゃんはまだ18歳。俺たちよりもはるかに多い、たくさんの選択肢があるんだ。

 自分が下した決断がうまくいかなかった、そんなことでくよくよしてほしくない。勿論、うまくいくようにベストを尽くすのは大賛成。でも駄目だったとしても、それで菜乃花ちゃんの人生が否定されるなんてこと、絶対にないから。

 その上で大切なのは、笑顔でいること。ネガティブな気持ちからは余りいい考えが浮かばない。常に笑顔で、何事にもポジティブになっていくこと。まあ、これが案外難しいんだけどね。でもこれは、俺自身もいつも自分に言い聞かせている」


「……」


「だから話を戻すけど、まず逃げることは恥じゃない、これは覚えておいてほしい。そして、折角自分を守る為に逃げたんだから、逃げる前より笑顔になってほしい。自分の選択が間違ってなかったと証明するためにも、自信を持って楽しく過ごしてほしい。そうしたら必ず、次の展開が見えて来るはずだから」


「直希さんのお話……そんな風に言われたこと、今までなかったから少しとまどってます。本当にその……そんな風でもいいんでしょうか」


「菜乃花ちゃんは今、次のステップに進むための準備をしてるんだよ。生き方の問題だから、時には厳しいことも言わなければいけないこともある。でも今の菜乃花ちゃんは、戦って戦って、ボロボロになっている。今はそういう時じゃないと思う」


「……」


「要はケースバイケースってこと。菜乃花ちゃん、そんなに深く考えなくていいよ。菜乃花ちゃんの人生はまだまだこれからなんだ。何度でもやり直しはきくし、今よりもいい人生を歩むことだってきっと出来る。だから心配しないで、楽しく毎日を過ごしてほしい、そう思うよ」





「……なるほど。直希くんらしい意見だね」


「学校に戻ると決めた時、あの言葉にすごく助けられました。難しく考えることはないんだ、前向きになるように努力して、毎日を楽しく生きていけばいいんだって。でも……」


「少し、物足りないかね」


「は、はい……直希さんには悪いんですけど、本当にそれだけでいいのかなって」


「……直希くんがそう言ったのは、菜乃花くんの状態がよくなかったからだと思う。直希くんの言っていること、私も間違っていないと思う。だが、それだけで人生を生きていくのは難しいだろう。

 人生は長い。菜乃花くんはこれからも、多くの経験を積んでいくことになる。たくさんの人と出会い、たくさんの環境を知ることになる。その中で、時には自分に厳しく、逃げずに踏みとどまらなければならない時も来るだろう。涙を流しながら、苦しみながらも前に進まなくてはいけない時もあるだろう。

 直希くんが言いたかったのは、こういうことかもしれない。真面目な人ほど、壁にぶつかった時に、何としてもこの壁を乗り越えなければいけない、それが出来ないのは自分が怠惰だからだ、逃げてはいけないんだ……そう思い、必死になって頑張ろうとする。そしてそれが叶わなかった時に、その人の中にある心の糸が切れてしまうんだ。

 体の疲れは、休めば元に戻ることの方が多い。よく休んで、うまい物を食べて、しっかり寝る。それでまた、次の活力がみなぎってくる。だが、心の疲れはそうはいかない。例え休息を取った所で、壊れてしまった心を癒すのは並大抵のことではない。

 私は、菜乃花くんが真面目な人だと思っている。だから、そんな菜乃花くんだからこそ、直希くんもそういう風に言ったのではないかな」


「そう……でしょうか」


「ああ。そして結果的に、君は以前にも増して、生き生きと学校に行っている。あおい荘の中でも、笑顔が増えた」


「生田さん……」


「あの時直希くんが君に対して、負けるな、頑張れと言っても、菜乃花くんは学校に戻っていただろう。でも君の中で、背負っている荷物はさらに増えていたと思う。期待を裏切らない為にも頑張らなければいけない、そう思い、実行委員も続けていただろう。申し訳ないが、あの時の君を見ていて、その過度なプレッシャーがいい方向に向かったとは思えない」


「……」


「直希くんは、君の背負っている荷物を、少しだけ軽くしてくれたんだ。だからこそ今、君はこうして笑っているんだと思う」


「……ありがとうございます、生田さん」


「年寄りの説教みたいになってしまったが」


「いえ、とんでもないです。今のお話を聞いて……何だかまた、少し心が軽くなったような気がします」


「……」


「そうですね……私はまだ高校生で、知らないことの方が多くて、やってないことの方が多くて……なのに私、学校で辛かった時、世界には不幸しかないのかもって考えてしまって……でも、そんなことないんだって、直希さんは教えてくれたんですね」


「……僧侶たちがよく、修行をするだろう?滝に打たれたり、断食をしたり、宗派によっては火の中を歩いたり」


「……はい」


「あのことに、意味はあると思うかい?」


「え、その……」


「火の中を歩いたからと言って、何か特別な力が備わる訳でもない。空を飛べるようになったり、神通力が宿るなんてことも、多分ないだろう。でも彼らは、そうして修行に励む」


「……」


「そんなことをして、世界が変わる訳でもない。そうだろ?」


「……はい」


「でもね、彼らはその修行を通じて、自らの心を鍛えるんだ。そうして世界を見渡した時、世界は変わってるんだ」


「変わってるん……ですか」


「ああ。自分が変わることで、同じ世界を見ても、違う風に見えるんだ」


「自分が変わる……」


「菜乃花くんにとって、教室は牢獄の様に見えていたんだろう。でも君が、それに立ち向かうと決意した。そうして教室を見た時、明らかに前の景色とは違ってたはずだよ」


「あ……」


「自分が変わることで、世界が変わるんだ。君にとって居心地が悪かった世界も、君が変わったことで、過ごしやすい環境に変わったんだ」


「そういうこと……なんですか……みんなが私に気を使ってくれるから、前より居心地がいいんだと思ってました」


「君が変わったことで、周りが変わっていったんだよ。そして、そのきっかけをくれたのが、直希くんなんじゃないかな」


「そう……だったんだ……」


「よかったね、菜乃花くん。身近にいい先輩がいてくれて」


「……はい!ありがとうございました。生田さんに相談してよかったです」


「少しは役に立てたのだろうか。小難しい年寄りの言葉で」


「いえ、そんな……ありがとうございました。それからその……これからも、よろしくお願いします」


「ああ。こちらこそ、これからもよろしく頼むよ」


「はい!」


 菜乃花が照れくさそうに笑う。




 その笑顔を見て、彼女はもう大丈夫だ、そう思った。

 これからも苦しいこと、辛いことがあるだろう。しかしきっと乗り越えてくれる、そう生田は確信したのだった。

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