第86話 交錯


「あれから10年かぁ……」


 浜辺の階段で一人、つぐみがぼんやりと海を見ていた。




 あの日聞いた、直希が背負っていた大きな十字架。

 直希は誰にも頼らず、一人で背負って生きて来た。

 毎日毎日、彼は両親と妹への贖罪の為に生きてきた。

 それはどんなに辛い日々だったろう。


 しかしこの10年で、直希は少しずつ変わっていった。

 大学で出会った、介護の道を目指すようになった。何もなかった彼が、生まれて初めて持った夢。それはつぐみにとって、希望でもあった。


 勿論、根本的には何も変わっていない。彼が利用者に対して行っているのは、自己犠牲でしかなかったからだ。

 利用者に尽くすことが、彼にとって唯一の贖罪行為になったのだろう。

 だから彼は、自らをないがしろにしてでも、この仕事に向かっていった。例え我が身が砕けようとも、本望なのだろう。


 そんな彼の思いを知ったから、つぐみは直希を守ろうとした。

 卒業してからも直希に寄り添い、仕事の相談にも乗った。そしてこのあおい荘を立ち上げたいと言った時も、全身全霊をもって応えようとした。


 あおい荘が始まった時の、直希の笑顔が忘れられない。

 未来を見つめる彼を見て、つぐみは人知れず涙を流した。


 確かにまだ、小さな一歩なのかもしれない。でも直希は、その一歩すら踏み出すことが出来なかったのだ。

 だからこれは、大きな大きな一歩なのだ。

 そう思い、直希を見守った。




 そして夏。


 大きな事件が起こった。

 これまで頑なに、スタッフを雇うことを拒んできたあおい荘に、一人のスタッフが入ってきた。


 風見あおい。


 初めて彼女に会った時、その無垢な笑顔に吸い込まれそうになった。

 この子は、自分が持っていない物を全て持っている、そう思った。

 未だ直希への想いを諦めきれずにいる自分にとって、あおいとの出会いは脅威でもあった。


 明日香や菜乃花と出会った時にも感じなかった、この気持ち。

 彼女は本能的に、あおいが恋のライバルになると感じた。


 あおいを住み込みで雇うと聞いた時、つぐみの腹は決まった。

 私もここに住もうと。


 この10年、ずっと直希を見守ってきた。そして一度たりとも、直希に対する想いが揺れることはなかった。

 自分の気持ちを信じ、直希と共に新しい生活を始めたい、そう思った。

 それからしばらくして、菜乃花も住むようになった。


 毎日が賑やかで、とても楽しい。


 そんな中、つぐみは直希の変化を知った。

 直希が笑っている。どこかでブレーキをかけているのは相変わらずだ。しかし確実に、そのブレーキが緩くなっている。

 この半年の中で、直希が心から笑っている姿も何度か見た。

 誕生日に、直希が泣いたのを見て嬉しかった。あの日、部屋で自分も泣いた。

 直希は少しずつ、幸せを怖がらなくなっている。

 自分には幸せになる資格がない。そう言ったあの日。

 絶望の中で決意した自分は間違っていなかった、そう思った。




 菜乃花の口から、今彼の中に気になる女性がいることを聞かされた。


 それは誰なのか。


 つぐみの脳裏から、あおいの姿が消えなかった。


 考えてみれば、最近の直希は少しおかしい。

 あおいの行動に動揺し、必要以上の接触を避けているように見えた。

 直希はあおいのことを、一人の女として意識しているのだろうか。

 そう思うと、胸が少し痛くなった。

 直希が幸せになろうとするのは嬉しい。

 でもそれが、自分ではないことが辛かった。


「はぁ……」


 自分でも驚くぐらい、大きなため息が出た。

 そのため息に苦笑し、つぐみはゆっくりと立ち上がった。


「さて……そろそろ戻りますか、あおい荘に」






「お、おかえり、つぐみ」


「あ、ああ直希、ただいま」


 玄関で直希と鉢合わせた。

 直希の声を聞き、目が合うと胸が熱くなるのを感じた。

 思わず目を伏せる。しかしつぐみは、直希の様子もおかしいことに気付いた。

 落ち着かない様子で何度もまばたきをし、頭をかいている。

 そんな直希を見て、意識している自分に動揺し、不自然に咳払いした。


「ど……どこか行ってたのか」


「え、ええ……ちょっと海を見て来たの」


「そ、そうなんだ、ははっ……で、どうだった」


「どうって……ええ、いい海だったわよ」


「そうか、それは何よりだったな、はははっ」


「ふふふっ」


「あ、つぐみさん、おかえりなさいです」


 気まずい空気が流れる玄関先に、洗濯物を取り込んだあおいが入ってきた。

 そして直希の顔を見ると、あおいもぎこちなく目を伏せてうつむいた。


「た……ただいま、あおい」


「お、お疲れ様ですつぐみさん。どちらにか行かれてたのですか」


「え、ええ。ちょっと海の方にね」


「そ、そうでしたか。それはそれはよかったです」


「あ、ありがとう」


「あははっ」


「じゃ、じゃあ俺、そろそろお風呂のお湯、入れて来るよ」


「は、はいです。直希さん、よろしくお願い致しますです」


「う、うん。それじゃあまた」


「お、お願いね、直希」


 そう言って直希が風呂場に向かうと、あおいとつぐみは同時にため息をついた。

 そしてお互いに顔を見合わせ、笑った。


「何よあおい、大きなため息ついて」


「つぐみさんこそ、何かおかしいです」


 そう言って笑うあおいを、つぐみは無意識の内に抱き締めていた。


「……つぐみさん?」


「あおい……いつもありがとね」


「え?え?な、なんですか。私、また何かしましたですか」


「ううん、そうじゃないの。今までだって、そしてこれからも……ね」


「何だかよく分かりませんが、私の方こそ、ありがとうございますです。つぐみさんには本当、いつもご迷惑ばっかりかけてますです」


「あおい……いつまでもここにいてね」


「はいです。私はこれからも、ここでずっと、みなさんと一緒に暮らしたいです」


「ありがとう。あなたに会えてよかったわ」


「そんなそんな。私こそ、これからもよろしくお願い致しますです」




 これからどうなっていくのか、それは誰にも分からない。

 直希の心の中に、誰がいるのかも分からない。

 分からないことを悩むのではなく、今をしっかりと生きていこう。

 そうすればいつか、その先にたどり着ける。

 それが自分にとって哀しい結末だとしても、それを後悔しない為にも今、全力で走っていこう。

 そう思い、あおいを力強く抱き締めた。






「……」


「……つぐみさん?」


「…………それはそうとあおい……あなた、何でこんなに胸、大きいのかしら」


「えええええええっ?な、何ですかいきなり」


「何ですかじゃないわよ。大体あなた、この胸が育つのに、何の努力もしてないんでしょ。それに何よ、こんな嫌味ったらしく胸、私に押し当てて」


「えええええええっ?いえいえつぐみさん、私を抱き締めてくれたのはつぐみさんで」


「お黙りなさい。私はね、贅沢なんて言ってない。あとほんの少しでいいから育ってほしい、そう願ってたの。だから毎日トレーニングに励んで、食事にも気をつけていたっていうのに……菜乃花から聞いたんだけど、それが逆効果だって知った時の私の絶望、あなたに分かる?」


「つぐみさんつぐみさん、何で怒られてるのか分からないんですけど」


「それなのに菜乃花はきっちり、育っちゃって……この胸、ちょっと私に分けなさい」


「無理です無理です。私だって、分けられるなら分けたいんです」


「ほーら来た、胸が大きい人のあるあるよね。どうせ肩が凝るとか言いたいんでしょ。何よそれぐらい。この胸を保つための代償なんだから、それぐらい我慢しなさいよね」


「つぐみさん、やっぱり今日は変です……」





 そうだ、今はこれでいい。

 こうして毎日、ここで楽しく生きていきたい。


 理不尽にあおいに詰め寄りながら、つぐみは笑顔になっていた。

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