第83話 幼馴染と家出少女
部屋で一人、直希はビールを飲んでいた。
彼にとってそれは、かなり珍しいことだった。
仕事が終わったとはいえ、ここはあくまでも高齢者の住む住宅。深夜に入居者の体調が崩れ、対応しなければいけなくなることがあるかもしれない。
そういう思いが身に染みついて、基本彼は酒を飲まないようにしていた。
しかしここしばらく、彼は仕事が終わると、こうして一人酒を飲むことが多くなっていた。
菜乃花が言ったあの言葉。
「直希さんの心の中に今、気になっている女の人、いますか」
あれから一か月。この言葉が、胸の奥に突き刺さったままだった。
その言葉が脳裏によぎるたびに動揺し、それを打ち消そうとした。
恋愛に興味がない、そう自分に言い聞かせてきたはずだった。
それなのにあの時、二人のことを意識している自分に気づいてしまった。
風見あおい。
自分のことを信頼し、このあおい荘で働くことを誰よりも楽しみ、生きがいに感じている女の子。
彼女については、まだまだ謎が多い。彼女の実家がどこにあり、どれほどの影響力を持つ家なのかも知らない。
ネットで調べれば、少しは情報も入ってくるのかもしれない。しかし直希は、あえてそれをしなかった。
彼女のこれまでを知ることが、それほど重要だとは思わなかった。それよりも、これからの彼女の為に何が出来るか、それを考える方がよほど生産的だと思ったからだ。
彼女はここで、初めて人生の喜びを知った。
日々の姿を見ていても、毎日が新しい発見の連続で、それが楽しくて仕方がないように思えた。
これまでの数々の問題の時も、彼女は自分たちを信頼し、応援してくれた。
その励ましに、何度勇気をもらったことか。
彼女の無垢な性格から来るものなのか、何度となく彼女に抱擁された。その度に、自分より遥かに大きな存在に包まれているような気持ちになった。今は亡き母に抱き締められているような、そんな安息感を覚えた。
しかしそれは、女性に対しての免疫がないことから来る迷いだと、自分に言い聞かせて来た。
それなのに菜乃花に問われた時、彼女の笑顔が浮かんだ。
自分の中で風見あおいという女の子は、間違いなく大きな存在になっている。
その感情は、異性としての意識からくるものなのだろうか。
しかし、仮にそうだとしても、彼女のことをそういった
考えれば考えるほど、頭の中が混乱していく。
まとまらない考えに苛立ち、もう一口ビールを飲んだ。
そんな彼の脳裏に、もう一人の女性、つぐみの顔が浮かんだ。
東海林つぐみ。
子供の頃から、いつも一緒だった幼馴染。
じいちゃんばあちゃんを除けば、誰よりも同じ時間を共有した、かけがえのない存在。
父さん母さんが死んだ時も、誰よりも自分の為に泣いてくれた。自分を抱き締め、慰めてくれた。
あの頃の自分は、親殺しの十字架を背負った、半ば死んだ存在だった。
誰かに自分を罰してもらいたい、そう思っていた。
そんな自分を心配して、毎日のように一緒に登下校してくれた。
じいちゃんばあちゃんの家から学校までは、かなりの距離があった。しかしつぐみは毎日早起きし、自分を迎えに来てくれた。
駆け落ち事件があってから、少し疎遠になっていた関係が、父さん母さんの事故によって、また近付いたとも言えた。
そんなつぐみを見ていて、このままではいけない、せめて彼女が心配しないようにしなければ、そう思うようになった。
不思議なもので、元気なふりも続けていけば、それが自分にとっての当たり前になっていく。
心に刺さった罪の重さは消えない。しかしつぐみに心配をかけたくない、そう思い演じることで、いつの間にか自分の罪を考える時間が減っていった。
今の自分があるのは、つぐみのおかげだ。
つぐみは自分にとって、何よりも大切な存在だ。
しかしそれは、友人としての気持ちだったはずだ。
彼女は東海林医院を継ぎ、街の為に尽くしたいという大きな夢を持っている。そんな彼女を誇らしく思った。
それなのに彼女は、自分の夢の応援までもしてくれる。
介護の世界に入ると決めた時も、何度も何度も相談に乗ってくれた。あおい荘を立ち上げる時も、全力で支えてくれた。
そして今、東海林医院とあおい荘、二足の草鞋を履いたまま、自分をサポートしてくれている。
そんな彼女に対して、恋愛感情を抱いてしまうことは、彼女を侮辱することになるのではないか。
それに何より自分は、かつて彼女を……
「……」
そこまで思いを巡らせ、直希は立ち上がり、カーテンを閉めた。
今日も答えが出ない。いや、答えは既に出ている。その答えを自分のものとして消化出来ないだけだ。
答えは一つ。俺は恋愛などしてはいけない。
菜乃花、そして明日香も、自分に対して気持ちをぶつけてきた。
二人共真剣に、自分との交際を求めて来た。
しかしその気持ちに、自分は答えることが出来なかった。
なぜなのか。
自分には恋愛をする資格がない、そう思っているからだ。
その筈だったのに、菜乃花の問いに、自分の心の中に二人の存在がいることを自覚させられてしまった。
自分はどれだけ不義理な男なのか。不誠実な男なのか。
そう思い、直希はうつむき、口元を歪めて自嘲した。
「俺には恋愛を……いや、違うな……幸せになる資格なんてないんだよ、菜乃花ちゃん……」
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