第11章 巡る想い

第82話 あおい日記


 夜。

 あおいは部屋で、日記を書いていた。


 あおい荘に住むことになった次の日、つぐみと一緒に買い物に出かけた。

 直希の好意で、衣服や日用品を購入したのだが、一通り買い終えた頃につぐみから、「他に何か、必要な物はあるかしら」そう聞かれ、わがままと思いながらもお願いしたのが、この一冊の大学ノートだった。


 風見の家にいた頃の自分は、ただの人形だった。父が望むような娘になることだけを考え、父の言う通りに生きて来た。

 しかし風見の家を捨てた今、生まれて初めて自分の意思で、自分の足で人生を歩もうとしている。

 直希と出会い、直希から、「ここにいてもいいんだよ」そう言われた瞬間から、自分は生まれ変われたような気がした。



 新しい人生の始まり。



 その一日一日を書き記していきたい、そう思い、ノートの表紙に「あおい日記」と書いた。






「……」


 今日の分を書き終えたあおいは、ノートをぺらぺらとめくった。

 どのページを見ても、口元がほころんでいく。

 辛いこともあった。哀しいこともあった。

 しかしどれを見ても、自分にとっては宝石のように輝いた、何物にも代え難い大切な思い出だと思えた。

 そしてその思い出のすべてに、直希がいた。


 どんな時も直希は一番前に立ち、問題の解決に全力を尽くしていた。

 そんな直希を間近で見ながら、あおいはいつも憧れの気持ちを持っていた。


 菜乃花のいじめの事件から、もうすぐ一か月になる。

 あおい荘はこれまで以上に明るく、和やかで楽しい場所になっていた。

 大きな事件が起こるたびに、それを乗り越えた時に感じるこの気持ち。

 人はこうして、絆を深めていくんだと学んだ。


 菜乃花の時、これまでのどんな事件よりも重く、暗い絶望感があおい荘を支配した。

 自分にとって師でもあるつぐみの傷心、その姿にショックを受けた。

 4人しかいないスタッフの内、2人が心に大きな傷を負った。

 しかしそんな時、入居者が立ち上がってくれた。

 このあおい荘に住むすべての人を家族と思い、自分たちの手で守ろうとしてくれた。


 しかし菜乃花が背負った闇は深く、出口が見えなかった。


「直希さんなら大丈夫です」


 そう口では言ってきた。しかしそれは、自分に言い聞かせていたものだった。

 自分を認めてもらえない、自分は必要とされていない。その結果、排除される。

 それはかつて、自分が経験したことだった。

 そして自分は、その環境から逃げ出した。

 菜乃花もそうなってしまうのではないか、そう思い、不安に眠れぬ夜を過ごした。

 だが直希は、自分が思っているよりも早く、問題を解決してくれた。

 そう思うと、胸が締め付けられそうになった。




 直希さん。




 初めて会った日から、自分を認め、自分の居場所を作ってくれた人。


 彼がいなければ、自分の力のなさに絶望し、風見の家に戻っていただろう。

 そしてあの男と結婚し、新たな人形として生きることになったはずだ。

 そう思うと、震えが止まらなくなる。そして、胸が熱くなった。


「直希さん……私は……風見あおいは、ここにいてもいいんですよね……ずっと直希さんのそばで、私は生きていたいです……」


 そんな言葉が、自然と口から出た。そしてその言葉に、自分自身が驚いた。


「ずっと直希さんのそばに……これって、どういうことなんでしょう……」




 日記を閉じ、窓際に向かうと、カーテンを開ける。


「……」


 空には星が瞬いている。耳を澄ますと、波の音が聞こえる。


 直希の顔を思い浮かべると、胸が苦しくなった。鼓動が激しくなり、体が熱くなっていく。


 以前、文江の部屋で話したことが思い起こされた。


「あおいちゃんはナオちゃんのこと、男としてどう思う?」


「私は……私は直希さんのことが大好きです。直希さんと結婚出来るのでしたら、それはとても幸せなことだと思いますです」






「あ……」


 あおいの中に、何かが生まれつつあった。


 慌ててカーテンを閉め、再びテーブルの前に座ると、両手を胸に当てた。

 胸の鼓動が、手に伝わってくる。


「私……私は直希さんのことを、どう思ってるんですか」


 そう自らに問う。


「直希さんは……穏やかで、優しくて……誰よりも誠実な人です。こんな私のことを大切にしてくれて、私に居場所を作ってくれましたです。私に、自分の力で生きていける術を教えてくれた恩人です……でも……でも……

 ……なんですか、これ……私、直希さんのことを考えたら……胸が苦しくなるです……体が熱くなりますです……」


 目をつむると、直希の笑顔が蘇ってくる。自分を包み込んでくれるその笑顔に、胸はさらに締め付けられた。


 直希の言葉、ひとつひとつが思い出される。そのどれを思い返しても、体が熱くなる。



「あおいちゃん」



 微笑み、自分を呼ぶ直希。自分の一番大好きな直希の顔。

 その笑顔に、あおいの顔は燃えるように熱くなった。

 あおいは慌てて電気を消すと、布団の中に潜り込んだ。


「そんな……駄目です。こんなこと考えちゃ駄目なんです」


 体を丸め、自分の中に生まれつつある気持ちを打ち消そうとした。


「直希さんは私にとって、大恩ある人なんです。私はその恩をお返しする為に、もっともっと頑張らないといけないんです。半人前の私がこんなこと、考えてはいけないんです」


 しかし、そう思えば思うほど、あおいの中の直希が大きくなっていく。


「あ……あ……」


 口から吐息が漏れる。それが息苦しさなのか何なのか、あおい自身にも分からなかった。


「直希……さん……」


 気が付くと、瞳が濡れていた。


「私……私は、直希さんのことを……」





 ーー私は直希さんのことを、一人の男として愛している。





 答えにたどり着いてしまったあおいは、それに向き合うことが出来なかった。


 動揺し、狼狽した。


「駄目です……こんなこと、思ってはいけないんです……それに直希さんには、直希さんには……」


 そう思ったあおいの脳裏に、一人の人物が浮かんだ。




 つぐみだった。

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