第80話 決意


 台風が過ぎ去って、三日が経った。

 菜乃花はまだ部屋に閉じこもっていたが、それでも食事はしっかりと摂るようになっていた。

 そして夕食時間が終わった頃に、人目を避けるようにして風呂にも入っていた。



 あおい荘は少しずつ、元の雰囲気を取り戻していた。



 つぐみも元気になり、相変わらず直希やあおいに小言を言いながら、日々の業務を仕切っていた。

 つぐみが時折見せる寂しそうな横顔に、直希は気づいていた。しかしそれは彼女自身が乗り越えるべきこと、彼女が自分を頼って来ない限り、自分から立ち入ることはするべきじゃないと思っていた。

 中途半端な同情心でつぐみに向かう方が、つぐみに対して失礼だ、つぐみの気高い決意を否定するような真似だけはしたくない、そう思っていた。

 あおいは入居者たちと一緒に働けることが、本当に嬉しい様子だった。毎日が楽しくて仕方がないと、直希に笑顔で言っていた。

 菜乃花の学校からは、担任の教師から毎日のように連絡があったが、小山が対応し、もうしばらく休ませるつもりだと伝えていた。

 川合美咲も、一度だけやってきた。菜乃花とは会えなかったが、帰る時に小山から菜乃花の手紙を受け取り、その手紙を読んで嬉しそうに涙ぐんでいた。




 その日の夜。

 菜乃花は小山に頼みごとをしてきた。

 それを聞いた小山は、一瞬表情を曇らせた。しかし、自分を真っ直ぐに見つめる孫にうなずくと、「本当にいいんだね、菜乃花」そう言った。

 菜乃花が小さく笑うと、小山は両手を広げた。

 小山に抱きしめられた菜乃花は、「ありがとうおばあちゃん……大好き」そう言って涙を流した。





 翌朝。

 慌ただしく朝食の準備が済み、入居者スタッフが席に着いた。


「それじゃあみなさん、いただき……」


 と直希が言いかけた時、小山が声をあげた。


「ナオちゃん、悪いんだけど……ちょっと待ってもらえるかしら」


「小山さん?待つってどういう」


「うふふふっ。菜乃花、おいで」


 小山が廊下に向かって声をかける。


「え……菜乃花ちゃん……」


「菜乃花……」


 直希たちも驚きながら、廊下を向く。


「あのその……みなさん、おはようございます」


 そう言って、菜乃花が食堂に姿を現した。

 鞄を持ち、制服を着ている菜乃花。


「菜乃花さん、その髪……」


 あおいの言葉に、皆の視線が菜乃花の髪に向かう。

 背中まであった、菜乃花のふわふわした綺麗な髪。それがばっさりと切られ、ショートカットになっていた。


「うふふふっ。久しぶりだったんだけど、うまく出来たと思わない?」


「ええ、そうですね……小山さん、まだまだ現役でいけるんじゃないですか」


「直希さん直希さん、それってどういうことですか」


「小山さんはね、理容師さんだったんだよ」


「ええええええっ?そうだったんですか」


「あおい、驚き過ぎ。て言うかあなたは知ってるでしょ。直希のノート、見てるんだから」


「あ……そう言えばそうでした。すっかり忘れてましたです」


「全くこの子は……」


「うふふふっ。これでも昔は、私じゃないと駄目だってお客さん、いっぱいいたのよ」


「よかったらここで、皆さんの髪も切ってくださいよ」


「いいわよ、みなさんさえよければ」


「じゃあまずは、俺からで」


「うふふっ。男前さんの髪に触るなんて、久しぶりだわね」


「小山さん小山さん、私もお願いしますです」


「あらあら、うふふっ。じゃあナオちゃんの次はあおいちゃんね」


「はいです」


「菜乃花ちゃん。髪、とても似合ってるよ」


「あ、ありがとうございます……」


 そう言って、菜乃花は恥ずかしそうにうつむいた。


「それで菜乃花ちゃん、その……今日から学校に」


「はい。いっぱい休んじゃったので、ちょっと不安ですけど……私、頑張ろうと思います」


「そっか。菜乃花ちゃん、頑張ってね」


「はい!」


「菜乃花さん菜乃花さん、ではまた今日から、文化祭を?」


「いえ、それは……今日先生に、辞退させてほしいって言うつもりです」


「決めたんだね」


「はい。私にはやっぱり、荷が重すぎました。だからこれからは、私が出来ることを頑張りたいって思ってます」


「クラスの女子たちのことは、大丈夫かな」


「大変……かもしれません。でも私、これ以上逃げたくないって思いました。このまま学校に行かなかったら、私は自分で、あの人たちに負けを認めたことになります。だから……あと半年、頑張ろうと思います」


「そっか……でも辛い時は、ちゃんと言ってね。それにあんまりだったら、こうやって休んでもいいんだからね」


「はい。それに……美咲ちゃんもいてくれてますし」


「そうだね。じゃあ菜乃花ちゃん、やれるところまで、頑張ってみるといいよ」


「はい、ありがとうございます。それでその……みなさん、私……」


 そう言って、菜乃花は赤面してうつむいた。その菜乃花の手を小山が握ると、菜乃花は照れくさそうに笑い、顔を上げた。


「あのその……みなさん、今回のこと、本当にご迷惑をおかけしました。私がこんな風になって、その……生田さんや西村さんまで、お仕事を手伝ってくれたって、おばあちゃんから聞きました。それに山下さんや文江さん、私の担当の食事の準備をしてくださって……本当にありがとうございました。今日から私、また頑張ります。みなさんにしっかり、ご恩返しさせていただきます。ですからその……これからもどうか、よろしくお願いします!」


 恥ずかしがりながらも、はっきりとした口調でそう言うと、もう一度頭を下げた。

 菜乃花の力強い言葉に、自然と拍手が沸き起こった。


「菜乃花ちゃん、頑張ってね」


「はい、ありがとうございます」


 直希も手を叩き、食堂を見渡す。

 西村は相変わらず、涙とよだれで顔をぐしゃぐしゃにしながら手を叩いている。

 生田も目を細め、嬉しそうに手を叩く。

 山下と文江は菜乃花の元へ行き、優しく抱き締めている。


(やっぱいいな、こういうのって……)


 そう思い、笑った。




「あのぉ……菜乃花ちゃんや」


「あ、はい。何ですか、栄太郎さん」


「感動のシーンで申し訳ないんだが……さっきの話の中で、私の名前だけがその、出て来なかったというか……私もなんだ、その……わくわくしながら待っておったのだが」


「あ、すいません栄太郎さん、決してそういう意味ではなくて……栄太郎さんは、文江さんと仲直り出来て、本当によかったですね」


「あ、いや……はい、その節は本当にご迷惑を」


「おじいさん、あなたは何もしてなかったでしょ。本当、家事ってなったらおじいさん、全然使えないんだから」


「ば、ばあさん、そんな身も蓋もないこと、言わんでくれよ」


 食堂が笑いに包まれた。


「はい、それじゃあ菜乃花ちゃんも席に着いて。早くしないと学校、遅れちゃうからね。それじゃあみなさん、いただきます!」


「いただきます!」


 久しぶりに全員がそろった食堂で、皆が元気よく声を上げた。

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