第76話 台風の夜
猛烈な雨と風。
10年ぶりと言われている、この街への台風直撃。
街は昼過ぎ頃から、人の動きが完全に止まっていた。
「つぐみ、これで全部だ」
「お疲れ……って直希、ずぶ濡れじゃない」
庭にある、風で飛んでいきそうなものを全て玄関に運び終えた直希。
雨合羽を着ていたが、そんなものが役に立たないほど雨風は強く、ズボンも靴もずぶ濡れになっていた。
「とりあえずこれで拭いて」
そう言ってバスタオルを渡す。
「それから今、あおいがお湯を入れてるところだから。準備が出来たら先にお風呂に入って」
「いや、まだ雨戸とか出来てないし」
「いいから、それは任せて頂戴。風邪ひいちゃったらどうするのよ」
「分かったよ、つぐみ。ありがとな」
体を拭き終わると、玄関のシャッターを下ろした。
「……なんだか急に、静かになったわね」
「だな。このシャッター、結構いいやつなんだぜ。少々の風ぐらいじゃ、びくともしないよ」
「そうね……考えたらこのシャッター、降ろしたのは初めてよね」
「ここを作った時、こんな物本当にいるかなって思ったけど、設置しておいてよかったよ」
「子供の頃にもこんなこと、あったわよね」
「ああ。あの時は何だかワクワクしてたけどな。部屋の中も暗くなって、秘密基地みたいでテンション上がったよ」
「何よそれ、ふふっ」
「ははっ」
つぐみの笑顔がいつも通りだと感じ、直希は安心していた。
勿論、まだ何も解決していない。だがつぐみも一日休んだことで、自分なりに色々と消化したんだろうと思った。そして今はまず、目の前にある問題から対処していこう、そう心に決めたんだと感じ、嬉しく思った。
「直希さん直希さん、お風呂の用意、出来ましたです」
「ありがとう、あおいちゃん。じゃあ申し訳ないけど、今日の一番風呂いただきますね」
「ああ、直希くん。早く温もって来るんだ」
「ナオちゃん、ちゃんと肩までつかるのよ」
「分かってるってば、ばあちゃん」
台風ということで心細いのか、入居者たちはみな食堂に集まっていた。
生田と栄太郎は将棋を、西村はテレビを見ている。
女性陣は夕食の準備の為、慌ただしく動いていた。
「今日は男性陣のみなさんも、昼過ぎまでよく働いてくれたから。後は文江さんたちが任せろって言ってくれたのよ」
「そうか……ははっ、何かいいな、こういうの」
「そうね。スタッフと入居者さん、みんなでこのあおい荘を守っていく。こんな施設、中々ないかもね」
「これで後は、菜乃花ちゃんが戻ってくれれば」
「そうね……でも大丈夫よ、きっと。昨日も明日香さん、言ってたでしょ。菜乃花なら大丈夫だって。時間はかかるかもしれないけど、心配いらないって」
「そうだな。明日香さんには、大きな借りが出来ちゃったよ」
「後が怖いわよ、直希」
「脅かすなって」
「ふふっ……さあ、早く入ってらっしゃい。雨戸はやっておくから」
「ああ、すまないな。あ、でも……菜乃花ちゃんの部屋はいいからな。後で俺の方から、声を掛けておくから」
「ありがとう、分かったわ」
就寝時間になり、食堂には直希一人が残っていた。
特に何かする訳でもないのだが、全ての部屋の雨戸が閉められたおかげで、あおい荘の中は本当に静まり帰っていた。
自分が少し動くだけで、いつもは感じることのなかった音が聞こえる。その雰囲気が新鮮で、寝てしまうのが勿体なかったのだ。
「みんな大丈夫かな……台風なんて久しぶりだから、妙に心細い顔してたし……何なら食堂に布団を敷いて、みんなここで寝てもよかったな。次に台風が来たら、提案してみるか」
その時、ガラスの割れる音が食堂に響いた。
「え……まさか、菜乃花ちゃん!」
直希が慌てて立ち上がり、菜乃花の部屋へと向かった。
少し前、夕食が終わった頃。
直希が扉をノックして、こう言ってきた。
「菜乃花ちゃん、何度も悪いんだけど、今夜台風が上陸するらしいんだ。それでね、念のため雨戸を閉めてるんだけど、菜乃花ちゃんの部屋の雨戸、閉めさせてほしいんだ。入ってもいいかな」
直希の声が聞けて嬉しかった。しかしまだ、直希の顔を見る勇気がない。
「菜乃花ちゃん、入ってもいいかな」
「だ、駄目です……ごめんなさい直希さん、私、その……寝間着だし……」
「だよね……じゃあ菜乃花ちゃん、今から説明するから、雨戸を閉めておいてくれるかな」
「は……はい……」
直希が順を追って、雨戸の閉め方を伝える。
「どう?一人で出来そうかな」
「はい……大丈夫です、出来ます」
「分かった。じゃあ菜乃花ちゃん、お願いするね。おやすみ」
「おやすみ……なさい、直希さん……」
直希の声を聞くと、胸が締め付けられそうになった。
外は暗く、雨が叩きつけるように窓に当たっていた。
心細かった。
本当なら直希の胸に顔を埋めて、「大丈夫だよ、菜乃花ちゃん」そう言ってもらいたかった。
でも、まだ直希に会う勇気は出なかった。
「……」
天井をみつめながら、菜乃花はそのまま深い眠りについていった。
突然響いた大きな音。
菜乃花が慌てて目を覚ますと、窓ガラスが割れて、凄まじい風と雨が部屋に入っていた。
暴風で飛んできた植木鉢が、窓を破ったのだった。
「え……」
突然の出来事に、菜乃花が呆然とした。
雨風は激しく、部屋になだれ込むように入ってくる。
菜乃花は立ち上がり、雨戸を閉めようと窓に向かった。
「痛っ……」
何かを踏んだ菜乃花が、顔をしかめる。
見ると足元に、大きなガラスの破片が落ちていた。
「……」
それを手に取り、じっとみつめる。
「もし……もしこれで手首を切ったりしたら、私……辛い世界からさよなら出来るのかな……」
そう言ってその場に座り込むと、ガラスの破片に指を立てた。
「痛っ……」
指先に僅かに血がにじむ。その痛みに菜乃花が苦笑した。
「ちょっとだけ血が……こんなぐらいで痛いって……ふふっ、馬鹿だな、私……こんな怖がりが、手首なんて切れないよ」
そう言って小さく笑った。
「ちょっと直希、今の音って」
ガラスの割れた音で、つぐみが部屋から飛び出してきた。
「ああ、菜乃花ちゃんの部屋だな。悪いつぐみ、ちゃんと確認しなかった俺のせいだ」
「そんなことはいいから。早く菜乃花の部屋に行ってあげて」
「ああ、分かった。つぐみは……大丈夫だから、部屋に戻っててくれ」
「私も一緒に……ごめんなさい、行かない方がいいわよね」
「いや……俺も正直、どうしたらいいのか分かってないんだ。でも、つぐみが今そう思ったなら、今はその直感を信じるよ」
「分かったわ。直希、菜乃花のこと、お願いね」
「ああ、任せてくれ」
そう言ってつぐみの頭を撫でると、直希は菜乃花の部屋に向かった。
「菜乃花ちゃん、菜乃花ちゃん」
「……直希さん」
「菜乃花ちゃんごめん、入らせてもらうね」
そう言うと鍵を差し、扉を開けた。
「……」
部屋に入ると、カーテンが風で激しく揺れていた。
暴風と雨が部屋を蹂躙している。直希が慌てて中に入る。
――その直希の目に、割れたガラスを持つ菜乃花の姿が映った。
「菜乃花ちゃん……駄目だ!」
「え……」
菜乃花の元に駆け寄ってガラスを奪い取ると、そのまま菜乃花を抱き締めた。
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