第74話 台風前夜のハリケーン


 目が覚めてかなり経つが、布団から出ることが出来なかった。


「……」


 昨日までのことが、まるで映画のように頭の中で再生され、その度に気分が悪くなった。

 クラスの女子たちの、自分を蔑むような視線。

 発言するたびに、どこからともなく聞こえて来る笑い声。

 踏み荒らされた菜園。

 小さくため息をつくと、菜乃花は再び目を閉じた。


 昨日の夜、直希が用意してくれたこの部屋に来てから、菜乃花は脱力感に支配され、何も手につかなくなっていた。

 もういい、何もしたくない。

 将来の夢だって、どうでもいい。

 頑張ろう、自分を変えよう、そう思った事が間違いだったんだ。


 疲れた。


 このまま消えることが出来たら、どんなに楽だろう。心からそう思った。

 そう思った、はずだったのに。

 昨日の夜、そして今日の朝と昼。

 直希とあおいが、扉を開けてご飯を置いていってくれた。

 何もしたくないはずなのに起き上がり、そして料理を見ると、食欲が湧いてくるのが分かった。

 無意識に手を伸ばし、口に運ぶ。

 そしてトイレに行きたくなると、また起き上がる。


 矛盾してる。


 このまま消えたいと思っているのは本当だ。なのに自分は、生理現象にすら勝てない。

 そう思うと、自分が滑稽に思えてきた。


 何より昨日、つぐみに言った言葉を思い出すと、胸が締め付けられそうになった。

 つぐみは何一つ悪くない。

 自分のことを思い、守ろうとしてくれた。

 栄太郎たちの喧嘩のことだって、文化祭で忙しい自分の邪魔をしないために、最低限の情報だけにとどめてくれていた。

 彼女の取った行動に、責める要素などどこにもなかった。

 つぐみはただ、自分を守ろうとしてくれただけなのだ。

 そんな当たり前のこと、誰に言われなくても分かっている。なのにあの時、自分はつぐみを非難した。

 友達、親友と言ってくれた彼女を責めた。


 最低だ。


 私は、私のことを友達だと言ってくれた人に甘え、罵倒した。

 もう取り返しはつかない。

 その癖、夫婦喧嘩のことを知らせなかったもう一人のスタッフ、直希に対しては何も言わなかった。

 なぜなのか。

 直希のことが好きだからだ。

 直希にだけは、そんな嫌な自分を見せたくない、そういった打算的な考えが自然と現れ、彼の前ではただ、無言を貫くことしかしていない。

 自分はどこまで醜いのか。心からそう思った。


 直希は料理を持って来た時も、「少しでもいいから食べてね」と言うだけで、今回のことを何一つ聞いてはこなかった。

 部屋から出ておいでとも言わなかった。

 それは彼の優しさなのだろう。でも今は、その優しさすら辛かった。


 もう自分は、このあおい荘にいることは出来ない。

 少し気持ちが落ち着いたら、ここを出て両親の元に戻ろう。

 学校も、もうどうだっていい。進学も就職もしたくない。

 住み慣れた家に戻って、部屋で静かに暮らしたい、そう思った。


 その時、扉の鍵が回される音がした。


「え、誰……まさか、直希さん?」


 ガチャリと鍵が開いた音がした。誰かがノブを回す。菜乃花の顔が強張った。

 嫌だ、今は誰とも会いたくないし、話したくもない。

 直希なら尚更、こんな自分の姿、見られたくない。

 菜乃花は無意識の内に、掛け布団にくるまって窓際まで後ずさった。


 バンッ!


 勢いよく開けられた扉。


「嫌っ……」


 菜乃花が目を背けると同時に、部屋に声が響いた。




「なのっちー、生きてるかーっ!」




 聞き覚えのある元気な声。菜乃花が顔を上げると、そこには明日香が立っていた。


「え……あ、明日香さん……?」


「おおっ、生きてる生きてる、ちゃんと生きてたよー、あははははははっ。なのっち、久しぶりだねー。あ、ちょっとお邪魔するよー」


 そう言うと、明日香は菜乃花の返事も待たずに、部屋に入ってきた。扉は開け放たれたままだ。


「ん~、どれどれ~?」


 菜乃花の前で腰を下ろすと、明日香は顔を覗き込んできた。


「よし、ちゃんと生きてる。顔色は……ちょこっとだけ悪いけど、まあなのっちは元々色白だからね、誤差の範囲内ってことで」


「あ……明日香さん、どうしてここに」


「ん~?なんでだと思う~?それはね、ダーリンから、ア・イ・ス・ル、ダーリンから頼まれたからなんだよね~」


「頼まれたって、何を……」


「あんたを風呂に叩きこんでほしいって言われたの。なんでもあんた、昨日帰ってからずっと引きこもってるって言うじゃない?それに聞いたよー、全身ずぶ濡れだったって。なのにお風呂にも入ってない。そんな話を聞かされて、あたしが黙って見てると思う?」


 そう言うと、明日香は菜乃花の腕をつかみ、強引に立たせようとした。


「だからね、今からなのっちの、ザ・入浴ターイム!あたしが綺麗にしてあげるからさ、立って立って」


「ちょ、ちょっと待って……待ってください明日香さん。私はお風呂なんて」


「聞こえなーい、あたし馬鹿だから、なのっちの言葉分からなーい」


 無理矢理立たせると、そのまま部屋を出ようとした。


「嫌、嫌です……お願い明日香さん、私のことはほっといて」


「ほっとける訳ないでしょ、このアンポンタンは。髪だってボッサボサだし、顔だって見てごらんよ、涙の跡残したまんまで。ごちゃごちゃ言ってないで、あたしと一緒にお風呂に入るの」


「嫌……お願い、やめて……」


「全く、この頑固お嬢様は……こうなったら仕方ない、最後の手段、使わせてもらうわよ。おーい、みぞれー、しずくー。なのっちをお風呂まで連れていくのだーっ!」


「はーい」

「はーい」


 明日香の掛け声と同時に、みぞれとしずくが部屋の中に入ってきた。


「なのっちー、お風呂入ろー」

「入ろー」


 そう言って、みぞれとしずくが菜乃花の手を握る。

 三歳児の無邪気な言葉に、菜乃花は動揺して明日香に言った。


「あ、明日香さんずるいです、みぞれちゃんたちを使うなんて」


「なーに言ってるんだか。使える物はなんでも使う、これぞ不知火式だよ。よーし、みぞれ、しずくー、なのっちを連れていくのだー」


「分かったー」

「はーい」


 みぞれとしずくが、きゃっきゃと笑いながら「なのっちー、早くー」とせがむ。

 その罪のない瞳に観念した菜乃花は、「分かりました、分かりましたから明日香さん、せめて服を着させて」そう言った。


「大丈夫大丈夫。廊下には誰もいないからね、下着姿のまんまでも問題なし。それよりほら、さっさと行くよ」


「明日香さんってばー」


 困惑する菜乃花にお構いなく、明日香はみぞれ、しずくと共に部屋を出ると、風呂場に向かって行った。

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