第73話 家族


 アラーム音が鳴り響き、つぐみが重い瞼を開けた。


「……」


 アラームの音で目が覚めるのは久しぶりだった。よほど疲れていたのだろう、そう思った。

 重い体を起こし、軽く伸びをする。

 カーテンを開けると、灰色の雲が空一面に広がっていた。

 天気予報では、明日にも台風が直撃する恐れがあるとのことだった。


「……よし、頑張ろう」


 そうつぶやくと、洗面所に向かった。





「おはようつぐみ。よく眠れたか」


 廊下を出たつぐみが、食堂のカウンターにいる直希に声をかけられた。


「おはよう直希。大丈夫、よく眠れたわ」


「ほんとか?」


 直希はつぐみの元へ向かい、覗き込むように顔を近付けた。


「な……直希、近い、近いってば」


「動くなって」


「……」


 直希の顔が間近にある。つぐみの胸が高鳴った。

 昨夜、直希の前で泣きじゃくったことを思い出し、顔が熱くなるのを感じた。

 直希の眼差しが、自分をじっと見つめている。


「……駄目だな」


「え……」


「駄目だ。つぐみ、もう一日休め」


「ちょ……ちょっと、何言ってるのよ。大丈夫だってば。昨日もあれからちゃんと眠ったし、体だって何とも」


「それ、俺に通用すると思ってるのか?何年お前の顔、見て来たと思ってるんだよ」


「大丈夫って言ってるでしょ。何よ、直希まで私を邪魔者扱いするの」


「んな訳ねーだろ。あおい荘に、お前はなくてはならない存在なんだ。それに……お前が元気でいてくれないと、俺も困るんだよ」


「だから大丈夫だって」


「はいはい分かった分かった。自分の体は自分が一番よく分かってるって言いたいんだろ。だったら話は簡単だ。頭冷やして、ちゃんと考えてくれ。いつものお前らしく、冷静に、客観的に」


 直希の眼差しは微動だにせずに、つぐみの瞳を見据えている。その目は優しくて厳しくて、自分を包み込むような力が込められていた。


「……確かにまだ、本調子じゃないけど」


「だろ?だったらいい機会だ、今日は休むといいよ。それにな、俺たちが調子が悪い時にちゃんと休まないと、あおいちゃんや菜乃花ちゃんの時に言えなくなってしまうだろ。率先して休む姿を見せるのも、俺たち先輩の役目だよ」


「そうね……確かにそうだわ、ごめんなさい」


「それにな、明日の夜ぐらいに台風が直撃しそうなんだ。だから明日の方が忙しいんだ。庭にある物の撤去とか、色々することがあるからな」


「分かった。じゃあ今日一日、お休みをいただくことにするわ」


「ああ、そうしてくれ。あ、でもあれだぞ。こっちが休みだからって、東海林医院で働くってのもなしだからな。ちゃんと休んでくれよ」


「ええ、真面目に休むことにするわ。と言ってもこの天気だし、どちらにしてもここにいることになりそうだけど」


「部屋でゆっくりしてろよ。何だったら山下さんと一緒に、映画観ててもいいんじゃないか」


「考えておくわ。じゃあバイタル、任せていいかしら」


「おう、任せとけ。ああ、あおいちゃん、おはよう」


「おはようございますです直希さん、つぐみさん」


「おはよう、あおい」


「あおいちゃん悪いんだけど、つぐみの代わりにバイタル、頼んでもいいかな」


「はいです、任されましたです。それで、つぐみさんは」


「まだ本調子じゃないみたいだからね、今日一日休んでもらうことにしたんだ」


「そうですか、分かりましたです。ではつぐみさん、よい休日を過ごして下さいです」


「ありがとう、あおい。ごめんなさいね」


「そんなそんなです。つぐみさん、ずっと私たちのこととかで、ゆっくり休めてませんです。どうかゆっくりしてもらいたいです」


 そう言ってカルテと血圧計、体温計を受け取ると、入居者の部屋へと向って行った。


「本当にあおい、成長したわね」


「ああ。全部お前のおかげだよ」


「な、何言ってるのよ。そんなお世辞言っても、何も出ないんだからね」


「おっ、ちょっと調子、戻ったみたいだな」


「何よそれ」


「ははっ……じゃあ、朝食の時間にまたな」


「ええ、ありがとう」


 直希がカウンターに入るのを見届けると、つぐみは自分の部屋へと戻って行った。







「おはよう、つぐみちゃん」


「え……山下さん……?」


 朝食の時間になり、つぐみが食堂に入ると、山下と文江が直希たちと一緒になって料理を運んでいた。


「な、直希、これってどういうこと」


「ああ、いやな……バイタルが済んでしばらくしたら、山下さんたちが食堂に来てくれて、朝食を一緒に作ってくれたんだよ」


「何でそんな……」


「はい、つぐみちゃんはこのテーブルよね、置いておくわよ」


「あ、ありがとうございます、山下さん」


「うふふふっ、いいのよ、これぐらい。いつもあなたたちにお世話してもらってるんだから。あなたたちが大変な時ぐらい、こうして一緒に働かせてもらえないかってね、直希ちゃんに相談してたのよ」


「おはよう、つぐみちゃん」


「お、おはようございます、小山さん」


「孫のことで、色々と心配かけてごめんなさいね。でも私ね、少しも不安に思ってないのよ。だって今の菜乃花には、こんなにたくさんのお友達がいるんだから」


「小山さん……」


「だからね、私は私に出来ることで、みなさんにご恩をお返ししたいと思ったの。今日のお昼は、私が作るから。つぐみちゃん、楽しみにしておいてよね」


「そういうことだからつぐみ、心配しないで、ゆっくりしてていいんだぞ」


「でも直希、その……入居者さんたちに働いてもらうだなんて」


「いいんだよ、つぐみくん」


「生田さん……」


「私もね、色々考えてみたんだ。ここにきて半年になるが、毎日部屋で本を読むか、直希くんと将棋をするか映画を観るか……でも一人で住んでいた頃には、毎日料理もしていたし、掃除や洗濯もしていた。

 確かにここは、世間的に言えば介護施設になるのだろう。だが、私たちはみんな、やろうと思えば出来ることがたくさんあるんだ。ホテル暮らしみたいに考えて、楽をさせてもらってたけど、せめて君たちが大変な時ぐらい、協力させてほしいんだ」


「そんな……生田さんまで……」


「勿論、新藤さんや西村さんも一緒だよ。私たちは掃除を担当することになった。君たちに比べれば手際も悪いと思うが、協力させてもらうよ」


「……」


 つぐみの目に涙が光った。


「つぐみちゃん、生田さんの言う通りよ。私たちはね、ここで暮らすようになってから、自分で出来ることまでしない癖がついちゃったの。人ってね、楽を覚えちゃったら、どんどん何もしなくなっちゃうものなの。でもこうしてね、お料理を作って体を動かしていたら、前の暮らしのことを思い出しちゃって、何だか楽しいのよ」


「文江おばさん……」


「ほっほっほ。そういうことじゃからな、つぐみちゃんはゆっくりしてるといい。どうしてもお礼がしたいと言うなら、後でお尻の一つも触らせてくれれば」


「西村さん、あなたはちょっと黙ってなさい。全く、このスケベさんは」


「山下さんは厳しいのぉ」


「まあ、そういうことだ。つぐみちゃん、今日は私たちに任せるといいさ」


「栄太郎おじさん……」


「……コホンッ、おじいさん」


「な……なんだね、ばあさん」


「あなたは何も出来ないんだから、偉そうに言ってるんじゃないですよ。家事の手伝いなんて、したことがないんだから」


「ばあさん……どんどん当たりがきつくなってるよな」


「うふふふっ」


「ははははっ」


 食堂が笑い声に包まれた。


「そう言うことだから、心配しなくていいよ、つぐみ」


「そうですそうです、今日一日ゆっくり休んで、また明日から私たちのこと、しっかり指導してほしいです」


「つぐみくん、私たちはその……こんな言い方、少し気恥ずかしいのだが、同じ家に住む家族なんだ。家族が困ってるなら、みんなで力を合わせて乗り越える。それでいいんじゃないかな」


「生田さん……ありがとうございます……」


 つぐみが生田の胸にしがみついた。


「じゃあ、用意も出来ましたね。それじゃあみなさん、いただきます」


「いただきます!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る