第67話 プロポーズ


 翌日。

 朝食時も、食堂は微妙な雰囲気のままだった。

 栄太郎と文江は、昨日と同じく別々のテーブルに座っている。

 文江は昨日と同じく、山下や小山たちと楽しそうに話をしているのだが、栄太郎はと言えば、無言でうつむき、力なく料理を口に運んでいた。

 そんな栄太郎を気遣って直希が声をかけるが、栄太郎は上の空で「ああ……そうだな……」と適当に相槌を打つだけだった。

 そしてその空気は生田と西村にも伝染し、二人共うなだれたように食事を摂っていた。

 食堂は、女たち三人の笑い声が支配し、男三人がその声に怯えていると言った、異様な空気に満ちていた。

 菜乃花は今日も、早くから学校に行っていた。

 つぐみとあおいはそんな空気の中、生田や西村に声をかけ、フォローをしていた。


 ラジオ体操が終わると、直希は栄太郎と一緒に出掛けていった。

 出かける時、つぐみに「昼もじいちゃんと外で食べてくるから。悪いけど、任せていいかな」と言ってきた。

 つぐみは了承し、今日一日直希に休暇を出したのだった。





 直希と栄太郎が帰ってきたのは、入居者たちの入浴が終わった4時頃だった。


「ただいまー」


 直希が両手に大きな荷物を持ち、玄関に入ってきた。


「おかえり直希。あれ?栄太郎おじさんは?」


「ああ、うん、ちょっとな……悪いんだけどつぐみ、ばあちゃんを呼んできてくれないかな」


「文江おばさん?さっきお風呂からあがって、お部屋に戻ったばかりなんだけど……」


「頼むよ。それからこれ……ばあちゃんに、この服に着替えてきてほしいんだ。理由は俺が後で説明するって、言っておいてくれないかな。そして用意が出来たらその後で、みんなも呼んできてほしいんだ」


「入居者さんたち?」


「うん。それと勿論、つぐみとあおいちゃんもね」


 直希が何をしようとしてるのか、つぐみには分からなかった。しかしつぐみはうなずき、文江の部屋へと向かった。

 直希が行動を起こした。直希が決めたことはいつも正しい、私はいつだって、直希の行動を肯定するんだ。

 そんな思いを胸に、つぐみが扉をノックした。





「……直希くん、一体何が始まるんだね」


 庭に集められたあおい荘の面々が、直希と文江を囲むように立っていた。


「すいません生田さん。折角休憩されてるところ、呼び出しちゃって」


「いや、それは構わないのだが……それに新藤さんは」


「はい、今から来てもらいますので」


「ナオちゃん、一体何が始まるんだい」


 直希が買ってきた、上品な紺のワンピースを着た文江が、落ち着かない様子で言った。


「落ち着いてってばあちゃん。大丈夫だよ、取って食ったりしないから」


「直希さん直希さん、何か手伝うことはありますですか」


「ありがとう、あおいちゃん。あおいちゃんはそこで、これから始まるイベントを見守っててほしいんだ」


「直希、イベントって」


「じゃあ始めるか……おーい、じいちゃーん。準備出来たよー」


 直希が庭の裏に向かって声をかけた。





「……」


 直希の呼ぶ声に、栄太郎が姿を現す。


「え……おじい……さん……?」


 文江が思わず声を漏らした。

 現れた栄太郎は、文江も滅多に見たことのないスーツ姿で、手に薔薇の花束を持っていた。

 入居者たちも、その出で立ちに息を飲んだ。

 栄太郎は伏目がちに進み、文江の前に着くと、片膝をついて花束を向けた。


「……」


 あおい荘の庭が、水を打ったように静まり返った。


「……文江さん」


「え……」


 栄太郎の口から出た、自分の名前。


 こうして名前を呼ばれるのは、何十年ぶりだろう。そう思い、文江が栄太郎の言葉を待つ。


「わし……いや、僕は……僕はずっと、君に感謝してました……君はこんなだらしない僕のことを、いつも見守ってくれてました。君が呆れるようなこと、君を裏切ったこと、何度も何度もありました……でもその度に君は、僕のことを許してくれました……僕のことを、愛してくれてました……

 それなのに僕は、そんな君の気持ちに甘えてしまい、いつの間にか感謝の心を忘れてました」


「……」


「君は僕のような男と、50年も連れ添ってくれました……なのに僕は、君が言うように、君のことを……いつの間にか、都合のいい家政婦のように思ってました……

 君に初めて会った時、僕は君に一目惚れしました。君の美しさに見惚れ、そして付き合いを重ねるうちに、こんな素晴らしい女性、他にはいないと思うようになりました……なのに結婚して、それが当たり前のようになっていって、直人が産まれ、直希が産まれ……君のことを母さん、ばあさんと思うようになっていきました……

 でも僕は、君のことを心から愛しています。こんなだらしない男のことを、いつも見守ってくれる一人の女性として、愛しています……だから直希と相談して、この気持ちをもう一度伝えたい、そしてもう一度、自分の気持ちに正直になって、君に改めてプロポーズしたい……そう思いました。

 文江さん、愛しています。どうか僕と、これからも一緒にいてください。僕の二度目のプロポーズ、受けてください……」


 静まり返った庭先で、栄太郎はそう言って、花束を文江に差し出した。




「……」


 直希が文江を見る。


 文江は満面の笑みを浮かべていた。


 そして花束を受け取ると、目頭を押さえて言った。


「なんですかおじいさん、気持ち悪い」


「えええええええっ?ちょっとちょっとばあちゃん、それ、酷くない?」


「だって……気持ち悪いもんは気持ち悪いでしょ。ねえつぐみちゃん」


「わ、私に振られても」


「あおいちゃんはどう思う?」


「私は……格好いいと思いましたです!」


 あおいが真っ直ぐな瞳でそう言い、笑った。


「あらそう?うふふふふっ。でもね、そろそろお迎えが来そうなおばあちゃんにプロポーズだなんて、ほんと……うふふっ、おかしいわ」


「ははっ、ばあちゃん……」


「でも……栄太郎さん。確かにちょっとだけ、格好よかったわ」


 そう言って、栄太郎の肩に手をやった。栄太郎が顔を上げると、そこに妻、文江の笑顔があった。


「色々あったけど……でも私、あなたと結婚したこと、後悔したことなんてないわ。確かにあなたは……女癖が悪いしギャンブル好きだし、喧嘩っ早いしだらしないし、家事もしないしお金遣いも荒いし」


「ばあちゃんばあちゃん、そのぐらいで」


「うふふふふっ……でもね、そんなあなただから、私は好きになったんだと思うわ。そんな、いつまでたっても子供みたいなあなたのこと、私はこれまで、そしてこれからもずっと……愛しているわ」


「……文江さん」


「だから、気持ち悪いからやめてくださいって。いつもみたいに、ばあさんでいいですよ」


「いや、わしは決めたんだ。これからは君のこと、ちゃんと名前で呼ぶって」


「……気持ち悪くなるから、やっぱり別れようかしら」


「文江おばさん、そんなにいじめちゃ駄目ですよ。栄太郎おじさん、困ってるじゃないですか」


「うふふふっ、そうね……栄太郎さん、プロポーズ、喜んでお受けいたします。不束者ですが、これからも幾久しく、よろしくお願いします」


 そう言って栄太郎を立たせると、そのまま抱きしめた。


「栄太郎さんは覚えてますか。私たちの祝言の時、仲人さんが言ってくれた言葉」


「……何だったかな」


「共白髪って」


「共白髪……」


「私たち二人共、いつの間にか髪もこんなに白くなってしまいました。でもこれは、あなたと二人で歩んだ、人生の証なんです。私はね、あなたと一緒に白髪になれたこと、とても嬉しく思ってるんですよ。

 栄太郎さん、これからも二人で、余生を楽しく過ごしましょうね」


「ありがとう、文江……わしの方こそ……よろしく頼む。それから今まで、本当にすまなかった」


 二人の抱擁に、入居者たちから拍手が起こった。

 直希が見ると、西村はいつもの様に、涙とよだれで顔をぐちゃぐちゃにして笑っていた。生田も目頭を押さえながら、安堵の表情で手を叩く。

 山下も小山も、嬉しそうに二人を見つめる。そしてあおいもつぐみも、瞳を濡らしながら拍手を送っていた。


「よーし、それじゃあ、じいちゃんばあちゃんの二度目の結婚を記念して、これから記念写真を撮りまーす」


 そう言って直希が、一眼レフのカメラを手に笑った。





「はい二人共、笑って笑って。ほらじいちゃん、もっとくっついて。それにカメラ、睨まないで。喧嘩しにいくんじゃないんだから、もっと力を抜いて」


 あおい荘の玄関で、栄太郎と文江の撮影が始まった。二人を見守る入居者たちも、嬉しそうに笑っていた。


「だーかーらー、じいちゃん、顔怖いって。ちょっとばあちゃん、何とかしてやってくれよ」


「うふふふっ。ほら、栄太郎さん。ナオちゃんがああ言ってるわよ」


「お、おうさ……」


「もっと力を抜いて。かわいい孫に、私たちの幸せな顔、見てもらいましょうよ」


「あ、ああ……分かっとるさ」


「それにほら……みなさんを見てごらんなさい。みなさん、私たちを祝福してくれてるのよ。かわいい孫が作ったこのあおい荘。私たち、最高に幸せじゃないかしら」


「そう……だな……」


「だから幸せな顔、ナオちゃんに見せてあげましょう。私たちはあなたのおかげで、今こんなに幸せなんだって、あの子に伝えてあげましょう」


「直希……いい顔をするようになったな」


「そうですね。それはきっと、みなさんのおかげ。そして……私たちが育てたからですよ」


「ああ……そうだな……」


「そう、そう!じいちゃん、いい顔になった!じゃあいくよ、せーのっ!」




 撮影が終わると、再び拍手が起こった。

 みんなが笑顔で、二人を祝福する。


「それじゃあこの写真、すぐにプリントして額に入れてあげるから。本当はここに菜乃花ちゃんにもいてほしかったんだけど……だからプリントは、菜乃花ちゃんに一番に見てもらうことにするよ」


「ええ、それがいいわ。それと、菜乃花が落ち着いたら今回のこと、ちゃんと説明しないとね」


「そうだな。今回のこと、菜乃花ちゃんにきちんと言えてなかったからな」





「な……菜乃花……さん……」





「え」


 あおいの言葉に、直希とつぐみが振り返った。


「……菜乃花……どうしたの……」


「菜乃花ちゃん……」


 入り口に立っていた菜乃花。

 髪は乱れ、皺だらけの制服には濡れた跡が残っている。

 そして何より菜乃花の表情に、直希たちが驚いた。

 生気のない瞳。すべてを喪失したような脱力感。

 入居者たちも言葉を失い、菜乃花を見つめる。

 やがて菜乃花は唇を噛み締めると、ぼろぼろと涙を流し、部屋に向かって走っていった。


「菜乃花!」


 小山が叫び、車椅子を動かす。


「菜乃花ちゃん!」


 直希が菜乃花の後を追った。

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