第62話 地雷だらけの戦場で
廊下で腰砕けになった栄太郎。呆然とみつめる直希、あおい、生田。
小山の部屋から顔を出したつぐみも、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「……」
開け放たれた扉から、文江がゆっくりと姿を現す。そして栄太郎を見下ろすと、廊下を揺るがす大声で怒鳴った。
「出ていけえええええっ!」
「ふ……文江さん?」
いつも穏やかで優しい、そう思っていた文江のあり得ない姿に、あおいも衝撃を受けていた。
「落ち着け、落ち着けって。な、何が気に入らなかったんだ?わしが山下さんと、その……話をしてたのが気に入らなかったのか?」
「この……唐変木っ!」
栄太郎から枕を奪い取り、もう一度投げつけた。
「そんなことぐらいで怒るんだったら、あんたはとっくの昔に死んでるだろ!」
「だ……だろうな……」
「この街の女……何人泣かせたと思ってるんだ、この色情狂!」
「お……おいおい、そんなこと、今ここで言わなくても」
「……でもあんたは、いつも私の所に帰って来る……なんだかんだ言っても、最後にあんたが戻ってくるのは私の所だった。だから私も、そんなあんたを受け入れてた。今更そんな色目を使ったぐらいで、どうこう思ったりしないよ!」
「じゃ、じゃあ、何を怒ってるんだ、ばあさん」
「私はあんたのばあさんじゃない!」
「え……」
「私はあんたのばあさんじゃない!妻だろ!毎日毎日ばあさんばあさん、私がこの何十年、どんな気持ちでその言葉を聞いてきたと思ってるんだ!」
「お、お前だってわしのこと、じいさんって呼ぶじゃないか」
「あんたに合わせてるんだよ!直希が物心ついた時から、あんたは私のことをばあさんって呼ぶようになった。それまでは母さんだった。大体私は、あんたの母さんでもないんだよ!でも……直希も私のことを、ばあちゃんばあちゃんって慕ってくれる。だから私は、それもありかって思った。だからあんたのことを、じいさんって呼ぶようになったんだ。でもね……直希のばあさんにはなったけど、あんたのばあさんになった覚えはないんだよ!」
「ば……」
「まだ言うか、このオタンコナスっ!山下さんを見て見なさいよ!あの人は今でも、亡くなったご主人のことを祐太郎さんって呼んでる。いつまで経っても、あの人の中ではご主人が、大切な伴侶なんだって分かる。
でもあんたはどうなんだい。私のこと、毎日毎日ばあさんばあさんって、言われてる本人がどんな気持ちかなんて、考えたこともないだろ!あんた、私が妻だってこと、忘れてるだろ!」
「そ、そんなこと……」
「昨日は何の日だ、言ってみな!」
「き、昨日……?」
栄太郎が、慌てて直希を見る。しかし直希も、頭の中をフル回転して考えるが、答えにたどり着かなかった。
「直希を頼っても無駄だよ。だって直希は知らないからね、私たちの結婚記念日なんて」
「え」
「あ」
それかー、と、直希とつぐみが天を仰いだ。
「あんたの性格だからね、そんなこと、いちいち覚えてないことぐらい分かってるさ。でもね、昨日だけは特別……特別だったんだよ!」
「特別……」
「――昨日で私たちは結婚50年、金婚式だったんだよ!」
マジですかー、と、生田とあおいも天を仰いだ。
「だからね、もういいんだよ。私のことを妻として見ていない、ばあさんとしてしか見ていない。金婚式、結婚して半世紀……それだけの長い時間を過ごしてきた大切な記念日なのに、あんたは何も感じなかった。
私はこれでも、あんたに感謝してたんだ。こんな私と半世紀、連れ添ってくれたんだ。だからあんたに感謝の言葉を伝えよう、そう思ってた。
なのにあんたは……そんな大切な日だって言うのに、山下さんが最近綺麗になっただの、小山さんも若々しくなってきただの、それに比べてお前はどんどん老け込んでいくな……って、ふざけるんじゃないわよ!」
詰みましたー、と、山下と小山も天を仰いだ。
「挙句の果てに、何を怒ってるのか知らんが、直希たちも心配してる。いい加減機嫌直せ、面倒くさいぞって……もう我慢も限界だよ。あんたとは離婚、離婚だよ!今すぐここから出て行きな!」
そう言うと、荒々しく扉を閉めた。
「……」
静まり返った廊下。しばらく固まっていた栄太郎だったが、やがてゆっくりと立ち上がると、頭をかきながら直希の方を向き、笑った。
「ははっ……まいったまいった……」
「じいちゃん……地雷、全部踏めたみたいだね。おめでとう」
「ただいま……」
7時を少し回った頃に、菜乃花が高校から戻って来た。
「おかえり菜乃花」
その菜乃花の目の前を、布団を持ったつぐみが慌ただしく歩いていた。
「つぐみさん?それって、どなたの布団なんですか」
「え?ああ、これは栄太郎おじさんの布団なの」
「栄太郎さんの?何かあったんですか」
「うん、ちょっとね……でも、菜乃花は気にしなくていいのよ。それより学校お疲れ様。委員会だったんでしょ。ご飯の用意は出来てるから、着替えたら食べるといいわ。それじゃあ私、ちょっと急いでるから。また後でね」
「あ……は、はい……」
菜乃花が首をかしげながら、部屋へと戻った。
「おばあちゃん、ただいま」
「ああ菜乃花、おかえり。どうだった、学校は」
「うん……まあ、何とか……」
「うふふっ、ちょっと疲れちゃったかい?」
「……うん。やっぱり私に、実行委員なんて無理だよ……今日も委員会で、ほとんど何も話せなかったし……」
「頑張るんだよ、菜乃花。菜乃花が色んなことに挑戦してること、おばあちゃんは分かってるからね。勿論、ナオちゃんも」
「もう、おばあちゃんったら。直希さんは関係ないでしょ」
「うふふふっ、ごめんなさいね。でも本当だよ。ナオちゃん、菜乃花が頑張って苦手なことに挑戦してる、すごいって嬉しそうに話してたのよ」
「本当?」
「ええ本当よ。だからね、菜乃花。無理はしちゃ駄目だけど、出来る範囲でもいい、頑張ってごらん」
「うん……分かった。ありがとう、おばあちゃん」
「それにしても、ナオちゃんも大変よね」
「やっぱり何かあったの?」
「あら、まだ誰からも聞いてないのかい?実はね、今日菜乃花が行った後で、栄太郎さんと文江さん、喧嘩になっちゃって」
「ええ?本当なの?」
「そうなのよ。文江さんが栄太郎さんを枕で叩きながら怒鳴ってね、そりゃもう大変だったんだから」
「そう……なんだ……つぐみさん、何も言ってくれなかったけど」
「それから栄太郎さん、部屋に戻れなくなっちゃったのよ。昼間は食堂にいたんだけど、夜になっても文江さんの機嫌は直らなくて。だから今夜は、ナオちゃんの部屋で一緒に寝るみたいよ」
「栄太郎さんと文江さんが、夫婦喧嘩……ちょっと想像出来ないな。栄太郎さんはともかく文江さん、いつもあんなに穏やかで、優しいのに」
「そうね。だから私もびっくりしたの。いつもの文江さんと、言葉遣いから何から、全部違ってたんだから。それにあんなおどおどしてる栄太郎さんも、初めて見たわ」
「あおい荘……大変だったんだ……」
「菜乃花、自分が力になれてないとか、そんな風に考えちゃ駄目だよ」
「え……どうして分かったの?私まだ、何も言ってないのに」
「うふふふっ。これでも私、菜乃花のおばあちゃんだから。それぐらい分かるわよ」
「おばあちゃん……」
「おいで、菜乃花」
菜乃花が小山の元に行くと、小山は優しく抱き締めた。
「菜乃花は菜乃花で、今出来る精一杯を頑張るといいよ。どうしても菜乃花の力が必要になったら、その時はナオちゃんたちだって、菜乃花を頼ると思うの。でもね、ナオちゃんたちは頑張ってる菜乃花に今、余計な心配かけたくないと思ってるんじゃないかしら。だってそれが、頑張ってる菜乃花を応援することになるんだから」
「うん……」
「大丈夫、ナオちゃんたちを信じておあげ。菜乃花は文化祭を成功させて、私たちを招待しておくれ」
「……うん、分かった。私、頑張る」
「うふふふっ、ちょっと元気、戻ったかしら」
「私、そんなに疲れた顔してた?」
「だって私、おばあちゃんなんだから。うふふふっ」
「そっかぁ……ありがとう、おばあちゃん。大好き」
そう言うと、菜乃花は小山を抱き締めて笑った。
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