第61話 夫婦喧嘩
朝食後のラジオ体操が終わると、文江は早々に部屋に戻っていった。
残された栄太郎は、庭の喫煙所で頭を抱えている。
「あ、あのその……直希さん、みなさん、それじゃ私、その……いってきます」
「あ、ああ菜乃花ちゃん。何だかごめんね、朝からバタバタしちゃって」
「いえ、それはいいんですけど、その……文江さん、大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫大丈夫。じいちゃんばあちゃん、夫婦歴長いからね。こういうことはよくあるんだ。心配ないよ、菜乃花ちゃんが帰って来る頃には、またいつもの二人に戻ってるから」
「そう、ですか……分かりました。じゃあみなさん、いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
「菜乃花、実行委員、頑張ってね」
「はい。つぐみさん、ありがとうございます」
そう言って、菜乃花が高校に向かった。
「ふう……」
菜乃花の姿が見えなくなると、直希は大きくため息をついた。
「何よ直希、菜乃花が行った途端に」
「あ、いや……菜乃花ちゃんは今、色んなことに挑戦しようと頑張ってる。だから余計な心配なんてかけたくないんだよ。俺、うまいこと言えてたかな」
「全く……そんなことだろうと思ったわよ。まあ、菜乃花は大丈夫なんじゃないかしら。あの子、直希の言うことに疑いを持ったりしないから」
「そっか、よかった……」
「にしても、ちょっと大袈裟じゃないかしら。文江おばさんだって、そんなに引きずる人じゃないでしょ」
「だといいんだけど……いや、今回はつぐみの勘、外れてると思うぞ」
「そうかしら」
「ああ。じいちゃんばあちゃん、確かによく喧嘩するんだけど、俺が間に入ったら、結構簡単に仲直りしてくれてたんだ。それでも駄目だったのは、一回だけで」
「それってまさか」
「ああ。何か今回は、あの時と感じが似てるんだよ。さっきだって、何度か俺がばあちゃんに目配せしてたんだけど、ばあちゃん、気付かないふりしてたし」
「ちょ、ちょっと待ってよ直希。それってまさか、あの時みたいになるってことじゃないでしょうね」
「あ、いや……流石にじいちゃんばあちゃんも年だし、あんなことにはならないと思うけど」
「まいったね、直希くん」
二人を心配して、生田も喫煙所にやってきた。
「……新藤さん、大丈夫かね」
栄太郎は頭を抱えたまま、首を横に振った。
「なあじいちゃん、ばあちゃんが何で怒ってるのか、本当に分からないのかな」
「……知らん。わしは何も知らん」
「駄目だな、これは。完全にあの時のことを思い出してる感じだ」
「栄太郎おじさんをここまで落ち込ませるなんて……さすが文江おばさんね」
「しかもいつの間にか、『私』から『わし』に戻ってるし……まあでも、あの時とは事情が違うだろ。じいちゃんばあちゃん、二人共現役は引退してるんだし、あの頃の友達だって、いい歳なんだから。まさかあの時みたいに、街を割っての戦争みたいなこと、ならないだろ」
「ま……まさか栄太郎おじさん、あの時みたいにその……浮気してたとか」
「してる訳がないだろ。大体ここに来てから、わしが一人で出かけたことなどなかったろうに」
「そ、そうですよね、よかった……」
「新藤さん。直希くんたちの言う通り、あの頃とは随分状況も変わってる。あんたと文江さんの喧嘩で、この街が二つに分かれることもないだろう。だがその……私も今では、同じ屋根の下に住む同居人だ。あんたのそんな顔、見たくないんだ」
「ほらじいちゃん、生田さんだってこう言ってくれてるだろ。俺たちだって気持ちは同じなんだ。だからさ、何で怒ってるのか分からないけど、とにかくばあちゃんと話してきなよ。こういうのは、時間が経てば経つほどややこしくなるんだから」
「私も直希と同じ意見です。とにかく向き合って、誠実に話し合った方がいいと思います」
「直希さんつぐみさん、山下さんのリハビリ、終わりましたです」
「ああ、ごめんねあおいちゃん。結局まかせちゃって。つぐみ、俺たちもそろそろ、小山さんのリハビリ始めるか」
「そうね。栄太郎おじさん、大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ。すまんね、つぐみちゃんにまで心配かけてしまって」
「いいんですよ、これぐらい。お二人には私、ずっとお世話になってるんですから」
「ありがとう……」
栄太郎は力なく立ち上がり、小さく息を吐くと、部屋に戻っていった。
「……この街の怖い人たちをまとめていた、そんな人の後姿には見えないわね」
「まあでも、仕方ないと思うぞ。じいちゃんが今向かってるのは、そのまとめ役が唯一恐れてる、怖い人なんだからな」
「直希さん直希さん、それってどういう」
「うちのじいちゃんはね、この街の怖い人たちをまとめてた人なんだ。でもそれは、ばあちゃんがいればこそ、だったんだよ。言ってみれば、この街の真の支配者は、じいちゃんじゃなくてばあちゃん」
「えええええええっ?文江さん、そんなに怖い人だったんですか」
「いやいや、別に怖いってことはないんだよ。でもね、この街のやんちゃな人たちはみんな、一度はばあちゃんの世話になってるんだよ。金がなかったら飯を食わせてあげて、宿無しになったら家を探してあげて、しばらく家に住ませて面倒みてあげたりもした。仕事も紹介してあげてた。言ってみれば、ばあちゃんはこの街の姐御さんなんだ」
「そうなんですか……ちょっと驚きましたです」
「だからね、この街には、ばあちゃんの為なら命も投げ出せるって人が大勢いたんだ。勿論、じいちゃんのことも慕ってたけどね。でも昔、二人が本気の大喧嘩した時があってね、じいちゃん派とばあちゃん派に分かれて大変だったんだ」
「生田さんも、あの時は大変でしたよね」
「あ、ああ……この街は、新藤さん夫妻のおかげで、平和を保ってるところがあったからね。若い連中も、新藤さんの世話になれば、そう無茶もしなくなった。私たちとしても、新藤さんには一目置いている所があったんだ。
だがあの時だけは、本当に参った。お二人の喧嘩が元で、街が一触即発の空気になったんだからね」
「それで、その時はどうなったんですか。戦争ですか」
「いや……その時まだ小学生だった直希くんが、二人の間に入ってくれたんだ。殺気だってる若い者たちに囲まれた中で、二人に会って……泣いてくれたんだ」
「生田さん、その……あおいちゃんにまで俺の黒歴史、教えないでくださいよ」
「いやすまない。でもね、私はあの時ほど、家族の絆を感じたことはなかった。誰の言葉にも耳を貸さず、今にも戦争が始まろうとした時に、君の涙がそれを収めたんだ。若い者たちも、君の涙に涙していた。家族の絆に勝るものはない、そう思ったものだよ」
「……ありがとうございます、生田さん」
「でもそういう意味では、今回もうまくいくんじゃないかしら。その大切な孫も、今ではこのあおい荘の管理人。孫が困るようなこと、文江おばさんだってしないわよ」
「そうですね、私もそう思いますです。文江さん、直希さんのことを本当に大切に思ってますです」
「ありがとうつぐみ、あおいちゃん」
「じゃあそろそろ、小山さんのリハビリ始めましょうか。私、小山さんを呼んでくるわね」
「ああ、頼むよつぐみ」
そう言って、直希たちが玄関に入ったその時だった。
「ふざけるんじゃないよ、この鼻糞野郎っ!」
高齢者専用の集合住宅に似つかわしくない、品のない言葉が響き渡った。
「え?え?」
「な、直希さん、今の声って」
「ばあちゃん……」
新藤夫妻の部屋の扉が荒々しく開き、栄太郎が尻餅をついて廊下に転がっていった。
その栄太郎の顔面に、飛んできた枕が直撃した。
「ば、ばあさん、ちょっと落ち着けって」
「やかましいっ!この…………クソじじいっ!」
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