第60話 じいちゃんばあちゃん
「あれ?ばあちゃんは?」
あおいたちが朝食を運んでいる時に、直希が栄太郎に声をかけた。
「もう来るだろうよ。何でか知らんが、朝からご機嫌斜めなんだ」
「また?じいちゃん、今度は何をしたんだよ」
「いやいや、今回は本当に分からんのだよ。起きた時から、何でか知らんがずっとむくれてるんだ」
「じいちゃん、知らない内に地雷を踏む所があるからね。ほら、ちょっと考えてみてよ。でないとフォローも出来ないだろ」
「いやいや本当、見当もつかんのだよ。私が何を言っても、『別に』の一点張りで」
「ここに来てからは、そんなに喧嘩なんてしてなかったろ?と言うか、そう言えば一度もしてなかったんじゃないかな」
「確かに……と言うことは、かれこれ半年ぐらい喧嘩してなかったのか」
「奇跡だね。前の家だと、二日に一回は喧嘩してたのに」
「うふふふふっ」
横で聞いていた山下が、口に手を当てて笑った。
「ごめんね山下さん。ばあちゃんが来たら、ちょっとフォローしておいてくれませんか」
「うふふふっ、いいわよ。でも……いいわね、喧嘩出来る相手がいるってことは」
「あ、いや……これはどうも、失礼しました」
「いえいえ、そういう意味じゃないですから、気にしないで下さいな。でも新藤さん、直希ちゃんの言う通りですよ。いつも優しくて穏やかな、あの文江さんが怒るなんて余程のことだと思うわ。何があったか知らないけど、ちゃんと謝ってあげないと」
「ははっ、恐縮です。ですが山下さん、穏やかって言うなら、山下さんこそですよ。何と言うか、その……最近、めっきり綺麗になられた」
「まあ新藤さん、お上手ですこと。うふふふふっ」
「いやいや、世辞などではなく本当のことです。何やら孫たちと一緒になって、色々難しいことをされているようですが、その頃からですかな、本当、今まで以上にお綺麗になられた」
「うふふふふっ、本当、やめてくださいって新藤さん。確かに新藤さんのおっしゃる通り、直希ちゃんたちのおかげでね、今は毎日がとっても楽しいの。何て言うか……若い頃に戻ったような感じ、と言ったらいいのかしら。体も軽いし、お友達も出来たし、毎日がとても新鮮なの」
「孫がお役に立てたのなら、こんな嬉しいことはありませんな。これからもどうか孫共々、よろしくお願いしたいものです」
「ええ、こちらこそ……あら文江さん、いらしたのね」
「えっ」
栄太郎が、山下の言葉に慌てて振り返った。
「……」
「ば……ばあさん」
「なんですか、おじいさん。変な顔して」
「あ、いや、その……今な、山下さんとはな、その……最近めっきり元気になったみたいだからな、その秘訣を聞こうと思ってだな」
「そうみたいですね。随分楽しそうで」
「……最悪だな」
直希がそうつぶやき、ため息をついた。
「山下さん、おはようございます」
「おはようございます、文江さん。今日もいいお天気みたいね」
「そうですね。暑さも少しやわらいできたし、過ごしやすくなって本当、助かりますね」
「本当にね、うふふふっ」
「ふ、文江さん、おはようございますです」
流石のあおいも微妙な空気を感じたのか、慌てて文江に声をかけた。
「あらあおいちゃん、おはよう。今日もお元気ね」
「は、はいです。私は今日も、元気いっぱいですです」
「うふふっ、あおいちゃんの元気な顔を見てるとね、私も元気になってくるみたいなのよ」
「ありがとうございますです。ではでは文江さん、お食事お持ちしますです」
「ありがとう。あ、そうだわあおいちゃん。私ね、今日は小山さんと一緒にお食事したいの」
「え……」
「構わないかしら、小山さん、菜乃花ちゃん」
「ええ、勿論よ。さ、どうぞどうぞ」
「ありがとう、小山さん。菜乃花ちゃんも、おはよう」
「お、おはようございます、文江さん」
「今日もこれから学校よね。菜乃花ちゃんは本当、毎日頑張ってるわね」
「いえ、そんな……でもその、ありがとうございます」
「直希、ちょっと直希」
つぐみが直希を小声で呼んだ。
「どうしちゃったのよ、文江おばさん」
「じいちゃんが言うには、朝からずっと機嫌が悪いみたいなんだよ」
「機嫌って、何かあったの?」
「俺に聞かれても困るよ。じいちゃんも分かってないみたいだし。後は今のが、とどめになったみたいだけどな」
「今のって」
「なんでか分からないけど、二人は微妙な雰囲気になってた。なのにばあちゃんが来て見たら、じいちゃんは山下さんと楽しそうに話してた」
「それって……えええええっ?ひょっとして浮気疑惑?」
「いやいや、そんな大袈裟なものじゃないだろ。ただ喧嘩してる時に、別の女性と楽しそうにしてるところを見たんだ。タイミングとしては最悪だよ」
「どうするのよ、直希」
「どうするって言われても」
「何とかしなさいよ。あなた、ここの管理人でしょ。それに二人の孫なんだから」
「無茶振りするんじゃねえよ。何とかって言うならお前が…………あ」
食堂の皆が、微妙な顔で直希を見ていた。生田や西村に至っては、今すぐここから逃げ出したいような顔で、何度も咳払いをしていた。
「あ、あははははっ」
重苦しい空気が、食堂中に広がっている。
「ナオちゃん」
「え?な、なんだいばあちゃん」
「もう準備も出来てるでしょ。早く食べないと、菜乃花ちゃん遅刻しちゃうわよ」
「あ、ああ、そうだね。それではみなさん、いただきます」
「い……いただきます……」
あおい荘が始まって以来、これ以上にないくらい覇気のない声で、朝食が始まった。
「あ、その……ばあさんや」
「なんですか、おじいさん」
「いやな、なんで急に、小山さんのテーブルなのかなって思ってな」
「いいじゃないですか、別に。私だってたまには、こうしてお友達と一緒に食べたいんですよ」
「じゃ、じゃあわしは、その……」
「おじいさんはお綺麗な山下さんと、ご一緒したらどうですか」
「え……」
その言葉に栄太郎が動揺し、文江に弁解しようとした。その栄太郎を後ろから羽交い絞めにして、つぐみが耳元で囁くように言った。
「栄太郎おじさん、今は駄目。何も言っちゃ駄目だから」
「ど、どうして駄目なんだ」
「とにかく駄目ですって。今は何を言っても、火に油にしかならないですから」
「そ、そうなのか」
「とにかく、今はこっちに来て、私のテーブルで食べてください。話は後で、対策を考えてからにしましょう」
「わ、分かった……」
そう言うと、栄太郎はつぐみと一緒のテーブルに座り、朝食を摂り始めた。
カウンターに入った直希は、入居者スタッフが、これまで感じたことのないような緊張感の中、黙々と朝食を食べる様を見ていた。
静まり返った食堂の中で、文江だけが、いつも以上に陽気に小山に話しかけ、笑う声が響いていた。
「参った……これは本当に、参った……」
直希がそうつぶやき、天を仰いだ。
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