第54話 べっぴんさん


「べっぴんさん?」


「そう、べっぴんさん。かわいい女の子のことを、そう言うのよ」


「かわいい女の子……つぐみちゃんみたいな子?」


「ふふっ、そうね。つぐみちゃんはかわいいもんね」


「うん。つぐみちゃんよりかわいい女の子、いないと思うよ」


「あらあら、ふふっ……直希は本当、つぐみちゃんのことが大好きね」


「うん、大好き。ねえ母さん、つぐみちゃんにべっぴんさんって言ったら、つぐみちゃん喜んでくれるかな」


「そうね。つぐみちゃんもきっと、喜んでくれると思うよ」


「じゃあ今度、つぐみちゃんに言ってあげる」


「直希は本当、優しいね」





 次の日、保育園でつぐみの姿を見つけると、直希は一目散に駆け寄った。


「つぐみちゃんつぐみちゃん。あのねあのね」


「おはようナオちゃん。どうしたの」


「僕ね、つぐみちゃんに言いたいことがあるんだ」


「私に?何かな何かな。いいこと?」


「うん。つぐみちゃんが喜ぶこと」


「えー、早く言ってよナオちゃん」


「うん。じゃあ言うから、ちゃんと聞いてね」


「うん」


 直希はつぐみの手を握り、顔をみつめた。


「え……ナオちゃん、どうしたの?なんか恥ずかしいよ」


「つぐみちゃん」


「は……はい……」


「つぐみちゃんは……べっぴんさんだね!」


 満面の笑みを浮かべて、直希がそう言った。


「……」


 しかし、べっぴんさんと呼ばれたつぐみは、直希の予想に反し、驚いた表情で固まっていた。

 そしてうなだれるようにうつむくと、小さな肩を震わせた。


「馬鹿っ!」


 言葉と同時に、直希の頬を思いきり張った。


「え……」


 色んな妄想をしていた。真っ赤になって照れるつぐみ、大喜びするつぐみ、抱き着いてくるつぐみ。

 しかし直希の予想は外れ、頬に熱い痛みが伝わってきた。

 何が起こったのか分からない直希が、立ちすくんでつぐみの顔を見た。

 つぐみは直希を睨みつけていた。目には涙が浮かんでいる。


「……ナオちゃんの……馬鹿っ!」


 再び聞こえた、つぐみの怒りに満ちた声。その声に、直希の表情は見る見る内に強張っていった。


「うわあああああん、つぐみちゃんの馬鹿あああああっ」


 つぐみの行為が理解出来ない直希が、大声をあげて泣いた。


「私だって……ナオちゃんの馬鹿あああああっ、うええええええん」


 つぐみも負けじと、大声をあげて泣いた。そして泣きながら直希の顔をもう一度張り、そのまま直希を倒して馬乗りになると、髪をつかんで引っ張った。


「うわああああああん」

「うえええええええん」


 二人が泣きながら、互いの髪を引っ張り、顔をかきむしる。その時ようやく先生が気づき、慌てて二人を引き離した。





 直希は部屋で、先生の前で泣いた。大声で泣いた。

 仲のいい二人の喧嘩に、先生もとまどいながら直希を抱き締め、


「大丈夫だよ直希ちゃん。どうしたのかな、何があったのかな」


 そう言ってあやした。



 別の先生に連れられたつぐみは、先生の問いかけに何も言わず、ひっくひっくと肩を揺らしながら、涙をこらえていた。


「つぐみちゃん、どうしてあんなことしたの?いつもあんなに仲がいいのに」


「……」


「黙っていたら先生、分からないよ?せっかく先生、直希ちゃんとつぐみちゃんが仲直り出来るように、頑張ろうと思ってるのに」


「……」


「直希ちゃん、お顔にちょっと怪我、してたわよ。多分今頃、痛い痛いって泣いてるかも」


「…………うええええええん」


 先生のその言葉に、つぐみがまた泣き出した。

 理由は関係ない。直希が痛い思いをしている、その原因を作ったのが自分なんだ、そう思うと急に、後悔の念が沸き起こってきた。

 先生がつぐみの頭を優しく撫でる。


「お父さんに電話したから、もうすぐ迎えに来てくれると思うわ。今日はおうちに帰って、ゆっくり休みなさい。そして明日、直希ちゃんに謝って、仲直りしてほしいな」


「うえええええん、ごめんなさいいいいっ」





「どうして直希くんのこと、叩いたりしたんだい?」


 診療時間が終わり、つぐみの部屋に入ってきた東海林が言った。


「……」


 家に帰ってから、つぐみは部屋から一歩も出ず、膝に顔を埋めたままずっと泣いていた。


「つぐみ。泣いてるだけじゃ分からないよ。お父さんに言ってごらん。直希くんとはあんなに仲がよかったのに、どうしたんだい?」


 東海林がつぐみの頭を撫で、優しく聞いた。


「直希くんのことなら大丈夫だよ。顔にちょっとひっかき傷がついただけだ。ほっといてもすぐに治るさ」


「……ナオちゃん……」


「うん。どうしたんだい」


「……ナオちゃんがね、私のこと……べっぴんさんって言ったの」


「べっぴんさん……直希くんがそう言ったのかい、つぐみのことを」


「……うん」


「そうか、よかったね」


「なんで?なんでよかったって言うの?」


「そりゃそうだろ。直希くんがつぐみのことを、そう言ってくれたんだろ?ああそうか、それでつぐみは、恥ずかしくなったんだね」


「違う、違うよ!べっぴんさんって、悪口なんでしょ」


「え?」


「絶対そう!ナオちゃん、私に悪口言ったんだ。ニコニコしながら」


 東海林はつぐみの言っていることが分からず、考え込んだ。そしてしばらくすると、


「ああ、なるほどね。そういうことか」


 笑いながら、つぐみの頭を再び撫でた。


「べっぴんさんって、どういう意味か分かるかい?」


「……分からない。でも、絶対変なこと!べっぴんさんなんて、お化けか何かなんでしょ」


「べっぴんさんって言うのはね」


「お父さん、知ってるの?」


「ああ、知ってるよ。そうだな……ほら、お母さんもべっぴんさんだよ」


 そう言って、机の上に飾ってある、つぐみの母の写真を指差した。


「お母さんも生きていれば、きっと喜んだと思うんだ。お父さん、恥ずかしいからそんなこと、言ったことがないけどね」


「……ねえお父さん、べっぴんさんってどういうこと?」


「べっぴんさんって言うのはね、綺麗だね、かわいいねって意味なんだよ」


「……え」


「だからね、直希くんはつぐみのことを、綺麗でかわいい女の子だって誉めてくれたんだよ」


「ええええええっ?そうなの?ナオちゃん私のこと、かわいいって」


「はっはっは、そうだよ。直希くんも多分、お父さんかお母さんから聞いたんじゃないかな。それでつぐみが喜ぶと思って、言ってくれたんだと思うよ」


 つぐみの顔が見る見る内に赤くなっていった。両手を頬に当て、身をよじらせる。


「ナオちゃんが私のこと、綺麗って」


「そうだよ。だからつぐみは本当なら、喜んであげないといけなかったんだ。ありがとうって、お礼を言わないといけなかったんだよ」


「……どうしようお父さん。私ナオちゃんのこと、叩いちゃった」


「つぐみはどうしたい?」


「謝りたい……かも……」


「そうだね、それがいい。そしてその後で、ちゃんとありがとうって言えるかい?」


 つぐみが真っ赤になりながらも、小さくうなずいた。


「じゃあ、ちょっと待ってなさい。直希くんの家に電話してあげるからね」


 喧嘩の理由が分かり、ほっとした東海林がそう言って、携帯を手に取った。

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