第53話 介護現場の現実
「つ……疲れたわ……」
「つぐみさん、大丈夫ですか」
「え、ええ……菜乃花もお疲れ」
「いえ、私は別に……でもその、今の山下さん……」
「ええ、かなり記憶が混乱してたみたいね」
「そんな……山下さんが認知症……」
「明日、お父さんの方には伝えておくわ。この前みたいに、一時のことだといいんだけど」
「……」
「菜乃花?」
「あ、いえ……すいません。私、何にも出来なくて」
「何言ってるの。こんな現場に遭遇したの、初めてでしょ。誰だってとまどうわよ」
「でも、その……直希さんは、あんなに自然に」
「……そうね。直希の演技には本当、驚かされるわ」
「そう、ですよね……でも直希さん、山下さんの様子にも全然驚いてなかったみたいでしたよね」
「そんなことないわよ。直希も心の中じゃ、パニックになってたと思うわ」
「そうなんですか?」
「だと思うわよ。いつも普通に接していた入居者さんが、急にあんな風になるんだから。でも、今日は菜乃花もいてくれてよかったわ。こんなこと言ったら山下さんに悪いんだけど、いい経験になったと思う」
「あ、はい……でもこんなこと、本当にあるんですね」
「現場ではよくあることよ。でもね、菜乃花。どんな時にも言えることなんだけど、とにかく私たちは、冷静に対応しなくちゃいけないの。直希だってきっと、怖かったと思う。辛かったと思う。でもそれを見せずに、これまで培ってきた経験と、山下さんの情報を頭の中で総動員させて、ああして祐太郎さんを演じきったの」
「すごいと……思いました……」
「どれだけ入居者さんの情報を持っているか。こういう時にするべき対応を知っているか。それがあるだけで全然変わってくるの」
「あの、その……山下さんは……」
「分からないわ。明日起きた時に、いつもの山下さんに戻ってることを願ってるけど」
「そんなこと、あるんですか?」
「ええ。そういう事例はよくあるの。一時的に記憶が混濁してしまうって言うか……でもね、その時に、さっきの直希みたいに否定じゃなく、相手に合わせて話をするのが定石なの。勿論、それが答えって訳じゃないし、他のやり方もあるのかもしれないけど……
ただ、記憶が混乱してる時に、相手のことを否定するのは違うと思う。だって本人からすれば、今ある記憶が全てなんだから。今の山下さんみたいに、急に新婚当時に戻ることもある。そしてたまたまそこにいた直希を見て、自分の夫だと脳が認識してしまう。それはその……仕方のないことなのよ。
でもね、こういう状況に、家族の人が出くわした時が大変なの」
「そうなん……ですか?」
「考えてみて。もし小山さんが急にああなってしまったら、菜乃花はどうするかしら」
「おばあちゃんが……」
「優しくて、時には自分を叱ってくれた人。菜乃花の中で小山さんはきっと、立派な人として存在してると思う。
そんな人が急に、支離滅裂なことを言い出す。さっき食べたばかりなのに、一週間食べさせてもらってないって怒ったり、あなたは誰なのと責めてきたりする。さっきの山下さんみたいに、急に何十年も昔に戻ったりする。
そんな状態に出くわしたら、ほとんどの人は、まず否定しちゃうの。何言ってるんだ、しっかりしろってね。それが続くと、次に怒り出す。
それも分からなくはないの。だって自分の中で、あれだけしっかりしてた親が、祖父母が、急に訳の分からないことを言い出すんだから。でもね、それが実は、一番しちゃいけないことでもあるの」
「……」
「本人からすれば、何を怒られているのか分からないの。でも自分は異常だと、子供や孫から否定される。怒られる……人間ってね、否定され過ぎちゃうと、自分がおかしいんだ、自分が悪いんだって思って、自分を攻撃しだすことがあるの。言ってみれば、自己否定」
「そんな……」
「そうなると、症状はどんどん悪化していく……ごめんなさい、言い過ぎね、悪化することが多いの。だからね、そういう時はさっきの直希みたいに、相手の話に合わせる対応がベストと言われてるの」
「直希さん……やっぱりすごいんですね……」
「相手の感情を穏やかにしてあげて、そして目先を変えてあげるの。例えば散歩するとか、お茶を飲んでもらうとか。そして今みたいに休んでもらう。症状が一時的な場合は、それでまた正常な状態に戻ることもあるの」
「そうなん……ですね」
「だからこそ、私たちがいるのよ。身内の人では出来ないことでも、他人だからこそ出来る対応があるの。私たちはそのノウハウを、普通の人よりも多く持ってる。だからね、菜乃花。さっきの話の続きになるけど、この道に進もうと思うのなら、学校に行ってしっかり学びなさい。そして出来れば、ここじゃないどこか別の施設で働いて、いろんな経験をしてほしいの。あなた自身のスキルを上げるためにもね」
「つぐみさん……」
「ちょっと重い話になったけど、山下さんのことは、明日の様子をしっかり見ておくわ。ひょっとしたら、血の巡りが悪くなっての一時的なことなのかもしれないし、もしそうなら、一度大きな病院で検査した方がいいのかもしれない。どちらにしても、私たちは決してあきらめない。山下さんにこれからもずっと、ここで過ごしてほしいから」
「はい……私もそう思います」
「じゃ、私たちもそろそろ部屋に戻りましょうか」
「あ、でも……直希さんは」
「直希なら大丈夫よ。多分今頃、山下さんと話し込んでるはずだから。山下さんが休むまでは、一緒だと思うわ」
「分かりました。あのその……つぐみさん、今日はその……ありがとうございました」
「ううん、私も楽しかったわ。菜乃花とはまたこうして、色んな話をしていきたいわ」
「私も、私もです」
「ありがとう、菜乃花」
そう言ってつぐみは笑い、菜乃花を優しく抱き締めた。
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