第40話 西村さんのこだわり
直希がトイレから戻ると、何やら物々しい雰囲気になっていた。
「西村さん、馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ」
ラジオ体操を済ませた入居者たちが、再び食堂に集まっていた。そこで珍しく、貴婦人山下が声を荒げていた。
「あなたみたいなスケベさんに、あの子たちの世話なんて任せられる訳ないでしょ。このあおい荘で犯罪なんて、勘弁してほしいわ」
「と、とにかく落ち着きましょう、山下さん。はいこれ、食後の紅茶、砂糖多めに入れましたから」
「そうですそうです。山下さん、こんな暑い日に興奮したら疲れてしまいますです」
「ほっほっほ。山下さんは厳しいのぉ」
「全く……」
大きく息を吐いた山下が、つぐみの出した紅茶に口をつける。
「あら……つぐみちゃん、今日の紅茶、いつもとは違うわね」
「え、ええ、そうなんですよ。これはこの前、生田さんの息子さんが持ってきてくれた分なんです。アールグレイです」
「ほんと……おいしいわ」
「あ……あははははっ」
「つぐみ、何かあったのか」
「な、直希、よかった戻って来てくれて。実はね」
「ナオ坊や、みぞれちゃんとしずくちゃんの面倒、わしが見てもいいかの」
「西村さんが?ああなるほど、そういうことね」
西村の言葉に、山下が思い出したようにまた声を荒げた。
「だから西村さん、あなたはちょっと黙ってなさい」
「山下さん山下さん、そんなに興奮してたら口から火、噴いちゃいますよ。ゴジラみたいに」
「ゴ……うふふふふっ、直希ちゃんったらほんと、よくそんな面白いことがポンポン出て来るわね」
「暑すぎて最近、頭に虫が湧いてるんですよ」
「まあ……うふふふふっ」
どれがツボに入ったのか分からないが、山下が口に手を当てておかしそうに笑った。
「ナオ坊、どうじゃな」
「そうですね、お願いしてもいいですか」
「あのその……直希さん、ほんとにいいんですか?」
菜乃花が心配そうな顔で聞く。
「うん。俺も西村さんに頼もうと思ってたからね」
「そうなんですか?」
「俺が見てもいいんだけど、正直病み上がりだし、この子たちと付き合う体力があるか心配だったんだ。でもそうだね、西村さん一人でも大変だろうし、あおいちゃん、よかったら一緒に見てあげてくれないかな」
「でもでも、私はお仕事が」
「これも立派な仕事だよ。と言うか、子供たちの相手の方が、仕事よりハードだと思うよ」
「分かりましたです、まかせてくださいです」
そう言って笑顔を見せたあおいに、また直希は動揺し、慌てて目を伏せた。
「直希さん?」
「……あ、いや、大丈夫。じゃあお願いするね。つぐみもそれでいいか」
「……そうね、直希がそれでいいなら構わないわ。どっちにしても、今の直希にあの二人の相手、無理だと思うし」
「そういうことで西村さん、お願いしてもいいですか」
「了解じゃ。おーい、みぞれちゃん、しずくちゃん。今日はこのじいじと遊ぼうかいの」
「にしむー!」
「にしむー!」
みぞれとしずくが、はしゃぎながら西村の元へと走っていった。二人と手をつなぎ、西村が食堂を出て行く。
「では直希さん、私も行かせていただきますです」
「う、うん。あおいちゃん、よろしくね」
「はいです。つぐみさん、菜乃花さん。後のこと、よろしくお願いしますです」
「ええ、頑張ってね」
「あのその……いってらっしゃい」
「待ってくださいです、西村さん」
三人の後を追い、あおいも食堂を後にした。
「ふうっ……」
あおいの姿が見えなくなると、直希はほっとしたように小さく息を吐いた。
「直希、大丈夫なの?今日の直希、何だか変よ」
「ああ、大丈夫大丈夫。まだちょっと、本調子じゃないだけだから。体動かしてたら元に戻るよ」
「そうなの?」
直希の挙動に、つぐみが少し首をかしげた。
「さて、と……じゃあ俺は、あおいちゃんの代わりに部屋の掃除をするよ。つぐみは洗濯、菜乃花ちゃんは昼食の用意、よろしくね。それとみなさん、しばらく騒がしくなりますが、よろしくお願いします」
「ああ。じゃあ直希、くれぐれも無理しないようにな」
「ナオちゃん、大丈夫かい」
「うん。じいちゃんばあちゃん、心配かけてごめんね。あまり無茶はしないようにするから」
「……じゃあ直希くん、私も戻らせてもらうよ」
「生田さんも、お騒がせしてすいませんでした。それと……明日香さんのこと、問い詰めないであげてくれてありがとうございました」
「……ああ。事情がありそうだったのでね」
「ですね。危険なことになりそうだったら、また相談してもいいですか」
「ああ、勿論だよ」
「ほらほら山下さん、いつまで笑ってるんですか。もうみなさん、お部屋に戻ってますよ」
「うふふふふっ……え?あら本当。私、なんでこんなにおかしかったのかしら」
「さあ、笑い虫でもお腹に飼ってるんじゃないですか」
「うふふふっ……もう直希ちゃん、勘弁してよ」
そう言って、山下も笑いながら部屋に戻っていった。
「あのその……直希さん、じゃあ私、おばあちゃんのリハビリに入らせてもらいます」
「うん。菜乃花ちゃんも、朝から騒がしくてごめんね」
「いえその、それはいいんですけど……西村さん、本当に大丈夫なんですか」
「それは大丈夫よ、安心していいわ。あおいのことは……ちょっと心配だけど」
「まあさすがに西村さんも、子供の前でセクハラしないだろうよ」
「それです直希さん、その……こんなこと、言っていいのか分からないんですけど、西村さんは……」
「心配?」
「あ……は、はい、その……山下さんが言われてたことも私、分かるって言うか……」
「西村さんがスケベさんだから」
その言葉に、菜乃花は顔を赤くしてうなずいた。
「菜乃花、そのことなら大丈夫よ。あの人、確かにスケベさんなんだけどね、未成年には絶対何もしない人だから」
「え……そ、そうなんですか」
「生田さんの時のこと、覚えてるかな。西村さん、餞別にって、つぐみたちの水着の写真を渡しただろ」
「な……ちょっと直希、あれは忘れなさいって言ったわよね」
「ああいや、そうじゃなくてな。あの時の写真、つぐみとあおいちゃん、それに明日香さんの写真だけだったろ?」
「あ、はい……私あの時、どうして私の写真だけないのかなって、ちょっと不思議に思ってたんです。それでその……やっぱり私、魅力がないのかなって」
「いやいやいやいや、そうじゃない、そうじゃないから。あれはね、菜乃花ちゃんがまだ未成年だからなんだよ。あの人ね、菜乃花ちゃんがどれだけ魅力的な女の子でも、20歳になるまでは絶対そういう目で見ないんだ」
「まあ……スケベさんにも、スケベさんなりのこだわりって言うか、プライド?があるのかしらね」
「だから俺も、菜乃花ちゃんにだけは何もしないって安心してるんだ。怖いのは、菜乃花ちゃんが20歳になってからだね」
「そ、そうなんだ……じゃあ、みぞれちゃんもしずくちゃんも」
「うん、絶対大丈夫だから安心して。どっちかって言ったら、あおいちゃんが気になるけどね。でも菜乃花ちゃんを西村さんと一緒にするって言うのも、菜乃花ちゃんが怖いかなって思ったから」
「まあ……あおいならうまくやるでしょ」
「だな。それにね、西村さんにお願いしたのには、もう一つ訳があるんだ」
「訳、ですか?」
「うん。どうしてなのか分からないんだけど、みぞれちゃんとしずくちゃん、西村さんのことがすごく好きなんだ」
「確かに……そうですね、さっきだって、あんな嬉しそうに」
「だろ?あの二人が西村さんを好きだってこと、ある意味あおい荘の七不思議の一つだと思ってるんだ」
「精神年齢が一緒なんじゃないの?」
「つぐみ、お前な……思っていても、それは口に出しちゃ駄目だろ」
「そうね、ふふっ……ごめんなさい」
「うふふふっ」
今まで三人のやり取りを、黙って聞いていた小山が思わず笑った。
「ほんと、あおい荘はいつも騒がしいわね」
「ははっ、確かにそうですね。でも、これぐらい変化がある方が、俺は楽しいですけど」
「うふふふっ、確かにそうね。病院や前の施設にいた頃は、毎日同じことの繰り返しだったから、日付も曜日もよく分からなくなってたの。でもここにいると本当、毎日が新鮮で楽しいわ」
「小山さん、近々、また大きなイベントがありますからね。楽しみにしていてくださいね」
つぐみの言葉に、直希が一瞬考え込み、そして聞いた。
「つぐみ、何かあったっけ」
「さあね、直希には分からないかも、だけどね」
「は、はい……そうですね、直希さんですから」
「……何のことだかよく分からないけど、手伝えることがあったら言ってくれよな」
「はいはい、分かってるわよ。それじゃぁ菜乃花、そろそろリハビリ始めましょうか」
「はい、つぐみさん。今日もよろしくお願いします」
「それが終わったら昼食の用意と洗濯。直希、あなたも、そろそろ部屋の掃除に行ってちょうだい」
「ああ、そうだな。それじゃあみんな、今日も一日よろしくお願いします」
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