第7章 誇り高きシングルマザー
第39話 明日香さんのお願い
食堂に揃った入居者たちは、いつもと違う空気に困惑していた。
復帰した直希に声をかけようと思っていたのだが、隅のテーブルで言い争ってるつぐみと明日香が気になって、それどころではなかったのだ。
直希は膝の上にみぞれとしずくを座らせ、二人に朝食を食べさせている。
「理由を教えてって言ってるのよ。どうして分からないのかしら」
「だからつぐみん、今ここでは言えないって言ってるのよ。いいじゃん別に。これまでだって、何度か二人を見てもらってるんだし」
「ここは保育所じゃないんです。みんな忙しいし、直希だって昨日まで、熱出して寝込んでたんだから」
「えええええっ?ほんとなのダーリン」
「ははっ……お恥ずかしい限りで」
「なんであたしを呼んでくれなかったのよー。だったらあたしが、付きっきりで看病してあげたのにー」
「その心配は無用です。ここには優秀なスタッフが揃ってますし、何より私がいるんですから」
「ふーん。つぐみんってば、そんなところでポイント稼いでたんだ」
「なっ……私は看護師、と言うか医者なんです。公私混同なんてする訳ないでしょ」
「公私混同?」
「あ、いえ……今のは違うわ。直希も何笑ってるのよ。私はただ、医療に携わる者として、直希についてただけなんだから」
「パパー、ママとつぐみん、また喧嘩してるー」
「してるー」
「ははっ、そうだね。ほらほらしずくちゃん、ほっぺにケチャップついてるよ」
「ありがとーパパー」
「パパー、みぞれもー」
「はいはい」
「ちょっと直希、あなたも何か言ってやりなさいよ。なんで他人事みたいに涼しい顔してるのよ」
「いいじゃないか別に。何なら二人の面倒、俺が見てやるから」
「そういうことを言ってるんじゃないの。そりゃね、知らない間柄でもないし、困った時はお互い様なんだから、協力するのはいいんだけど」
「じゃあ何に引っかかってるんだよ」
「この人よ」
そう言って明日香を指差した。その指を、すかさず明日香が握る。
「いっ……ちょ、ちょっと明日香さん、痛い、痛いってば」
「つぐみん、人を指差すもんじゃありません。子供たちの教育に悪いんだから」
「分かった、分かったから離してってば」
「それで?明日香さんの何が引っかかってるんだ」
「明日香さんのことも預かってって言ったでしょ。意味が分からないんだけど」
「そう言えば……そうだな、そんなことも言ってたな」
「直希あなたね……なんでそんなに能天気なのよ」
「それで?明日香さんを預かるって、どういうことですか」
「……」
「明日香さん?」
「あのねダーリン……ほんとは言いたくなかったんだけど……ダーリンに心配かけたくないし」
「いいですよ、何でも言ってください。力になりますから」
「ちょっと直希」
「明日香さん、聞かせてもらえます?」
「……実はね、あたし、その……ストーカーに狙われてるみたいなのよ」
「え……」
「えええええええええっ?」
「つ、つぐみん声、声が大きいってば。そんな声出しちゃったら、みんなが…………あ」
明日香が食堂を見渡すと、入居者を含め、あおいも菜乃花も明日香を見ていた。
「明日香さん明日香さん、ストーカーって本当なんですか?」
「ナオちゃん、それだったら警察に知らせた方がいいんじゃないかい」
「私が署に電話しましょう」
「いやいやいやいや生田さん、警察沙汰は勘弁だって。そんなことでお巡りさん呼んじゃったら、あたしもその……職場で変な目で見られるって言うか、その……それにみぞれとしずくのことだってあるし、あんまり怖がらせたくないし……」
「いや、ストーカーを放置する方が危険だ。何かあってからでは遅い。子供さんのことを思えばなおさらだ。確かに警官が来ることで、多少怯えてしまうかもしれないが、それでもあなたたちの安全の方がはるかに重要だ」
「だからね、その……生田さん、お気持ちだけいただいておきますんで、警察沙汰は……」
「……」
言葉を濁す明日香が、上目遣いで生田を見る。その目を凝視した生田は、しばらくして小さく息を吐くと、穏やかな顔で言った。
「……そうですか、分かりました」
「ええっ?生田さん、それでいいんですか」
「……ああ。明日香くんの様子だと、緊急度は低いと思ったのでね」
そう言うと生田は座り直し、再び食事を始めた。
「と……とにかくです。明日香さん、ストーカーに狙われてるって、どういうことなんですか。ちゃんと説明を」
「明日香さん、もしかしてその人って、あの」
「あ……ううん、違うの、違うのよダーリン。あの人は関係ないから。あの人はほら、ダーリンのおかげで何とかなったんだし」
「でもまた、気持ちに火がついちゃったとか」
「違うから違うから。ありがとうダーリン、心配してくれて。でもあの人じゃないから安心して。今回は……もっとその、変な感じなんだ」
「でもそれなら明日香さん、仕事どころじゃないよ。何なら三人共、今からでもここに」
「大丈夫大丈夫、仕事場にさえ行けば、他に守ってくれる男だっているんだしさ。それにこんなことぐらいで仕事、休んでられないんだから。何たって私は、二人のママなんだし」
「でも、明日香さんの身の安全の方が大事なんだし、何だったら事が収まるまで、ここに隠れててもいいんだよ。その間のお金ぐらい、俺が何とかするし……痛っ!ちょ、何だよつぐみ」
「あなたね……何でもかんでもお金で解決する癖、いい加減何とかしなさいよ。なんで直希が明日香さんのお給料、払わなくちゃいけないのよ」
「だってそうだろ?明日香さんの安全の為なんだし。何ならここで、落ち着くまで明日香さんにも働いてもらったって」
「それがお節介だって言ってるの。明日香さんだって、今の仕事に誇りを持ってるのよ。それにみぞれちゃんやしずくちゃんを、自分の力で育てるって覚悟で働いてるんだから。女の決意、そんな簡単に考えないで」
「いや、でも状況が状況だし」
「ダーリーン!」
「どわっ!」
明日香が、膝の上のみぞれしずくと一緒に、直希を抱き締めた。
「ありがとうダーリン。あたしのこと、そんなに心配してくれて。でもね、大丈夫だから。流石にストーカーも、職場や配達中に襲ってくることはないと思うんだ。ただ夜がちょっと怖いって言うか……だからお願い、しばらくこの子たちを預かって。そして仕事が終わったら、あたしも泊まらせてほしいの」
「ふがふが……ふがふが……」
「あ……あのその、明日香さん……そのままだと直希さん、窒息してしまいます……」
「え?あ、ああごめんごめん。あんまり嬉しかったもんだからさ」
そう言って体を離す。胸の圧迫から解放された直希が、ぜいぜいと息を荒げた。
「……」
菜乃花が複雑な顔で、自分の胸元に手をやる。
「……朝からお盛んなことで。よかったわね、直希」
「な、何がよかったもんか……し、死ぬかと思った……」
「幸せな死に方よね。ある意味、男にとっては本望なんじゃないかしら」
「どんな本望だよ、全く……と、とにかく明日香さん、分かりました。二人のことは任せてください。あと、しばらく泊まれるように、明日香さんが戻ってくる迄に準備しておきますから」
「ありがとう、ダーリン」
「みなさんも、食事中にお騒がせしてすいませんでした。そういう訳ですので、しばらく明日香さんたちをよろしくお願いします」
「お願いしまーす」
「なんでそんなに軽いのよ、明日香さんは」
「まあまあつぐみんも、そういう訳だからよろしくね。それじゃああたし、そろそろ仕事の時間だから。みぞれ、しずく。パパの言うことをちゃんと聞いて、いい子にしてるんだぞ」
「はーい」
「わかったー」
「うんうん、いい子いい子。それじゃあダーリン、後のことよろしくね。みなさんも、朝からお騒がせしましたー」
「明日香ちゃん、気をつけてね」
「あはははははっ……文江さん、ありがとね」
そう言って笑った明日香が、再び生田と目が合った。
「……」
生田の鋭い眼光に、一瞬明日香は身震いがした。しかしすぐに、生田は穏やかに笑い、小さくうなずいた。
「そ、それじゃあみなさん、今日もよろしくお願いします。では不知火明日香、職場に行ってまいりまーす」
そう言って敬礼すると、玄関へと走っていった。
「……行っちゃったね」
「パパー、おしっこー」
「わたしもー。おしっこー」
「はいはい、それじゃあ一緒におトイレ行こうね」
「はーい」
「はーい」
「つぐみ、悪いけどラジオ体操、先に始めておいてくれるか」
「はいはい、やっておくから、早く連れていってあげなさい」
「悪いな、頼むよ」
直希が二人と手をつなぎ、部屋に向かった。
「全く……次から次へとほんと、色々あるわね。あおい荘って」
「うふふふっ。でも、見ている分には面白いわよ」
「山下さん……他人事だと思って」
「うふふふっ。頑張ってね、みんな。それでどうするの、あの子たちの面倒。何なら私たちも協力するわよ」
「そうですよね……直希もまだ病み上がりだし、あんまり負担、かけたくないんですよね……」
「何ならわしが見てやろうかいの」
「え?」
それまで空気だった男が、小さく手を上げて立ち上がった。
「西村……さん?」
「ほっほっほ。と言うかわしが一番、適任じゃろうて」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます