第37話 温もり


「直希さん、失礼しますです」


 菜乃花が出てしばらくして、今度はあおいが部屋に入ってきた。


 手には洗面器とタオルが持たれている。


「えーっと、それはつまり」


「はいです。体を拭かせていただきますです」


 そう言ってにっこり笑うあおいに、直希は諦めた表情で両手をあげた。


「これもその……介助の練習、なのかな」


「え?何の話ですか」


「あ、いや……こっちの話」


「ではでは直希さん、座ってもらえますですか」


「了解。よいしょっと」


 さっきと同じく、腹筋に力が入らないのか、うまく起き上がることが出来なかった。


「失礼しますですよ」


 あおいはそう言うと、正面から直希を抱き締めるように腕を回した。


「あ、あおいちゃん?」


 重量感ある柔らかなふくらみが、直希の胸に密着された。あおいの髪が顔に触れる。


 先ほどの菜乃花の時のように、直希が動揺した。


「では……1、2の3です」


 あおいの掛け声で、直希の上半身が起こされた。


「どうでしたか直希さん。うまく出来ましたですか」


 笑顔のあおいに、直希は視線をそらしながら「う、うん……うまくなったね」そう言った。


「よかったです。これも先生と直希さんたちのおかげです」


 そう言って嬉しそうに微笑むあおいの顔に、直希はまた見とれてしまった。


「では直希さん、少しだけ待っててくださいです」


 そう言って台所に向かうと、洗面器にお湯を入れて戻って来た。


「直希さん、ご自分で脱ぐことは出来ますですか」


「……あ、ああよかった。自分で脱いでもいいんだ」


「え?」


「ああいや、こっちの話。大丈夫、ちょっと待ってね」


 直希が上着を脱いでいる間に、あおいは箪笥から着替えを取り出した。


「何もかもするのは違うって、先生にも教えられましたです」


「……」


「ヘルパー講習の先生です。私たちヘルパーは、ついつい全部お世話しようと思ってしまうんだって言ってましたです。でもそれは、利用者さんの能力を著しく低下させることになる、だから出来ることはご自分でしてもらうようにって、ずっと言われてきましたです」


「そう言えばそんなこと言われたな。俺はよくそれで怒られてたよ」


「ふふっ、目に浮かびますです。直希さん、きっと何から何までお世話しそうですから」


「でも確かにそうだって思ったよ。自分で出来ることまで奪ってしまったら、その人は本当に何もしなくなってしまう。時間がかかっても、自分ですることこそが幸せ、生きてるってことなんだって思ったよ」


「はいです。自分で着替える、自分で食べる、自分で歩く。普段何でもないことですけど、実はとても幸せなことなんだって思いましたです」


「そうだな、確かにそうだ。参ったな、こんな初歩的なこと、言われるまで忘れてたよ」


「直希さんは覚えないといけないことが、たくさんありますです。そういう時があっても仕方ないと思いますです。では……失礼しますですね」


 そう言うとタオルを絞り、背中を拭いていった。


「熱くないですか」


「うん。とっても気持ちいいよ」


「力加減も、このぐらいで大丈夫ですか」


「丁度いいよ、ありがとう」


「ふふっ」


「……どうかした?」


「ごめんなさいです。直希さんの背中、やっぱり大きいなって思いましたです」


「そうかな。同年代のやつらと比べても、そんなに大きく感じたことはなかったけど」


「やっぱり男の人です。西村さんも生田さんも、それに栄太郎さんも、みなさん立派な背中、されてましたです」


「そう言えば今日、入浴介助してくれたんだよね。ありがとう」


「そんなそんな、お礼なんてとんでもないです」


「それで、どうだった?」


「はいです。初めてでしたけど、何とかなったと思いますです。それに介助したのは小山さんだけですし、基本みなさん自立されてますから、見守るだけでしたです」


「でも、つぐみから聞いた時には嬉しかったよ。あおいちゃんもいつの間にか、立派なヘルパーになってたんだね」


「はい、背中はおしまいです。では後は、ご自分でお願いしますです」


「ああ、ありがとう」


 タオルを受け取ると、胸の辺りを自分で拭いた。そして布団の中でスボンを脱ぎ、足も拭いていく。


「ではこれ、着替えです」


 あおいが差し出した寝間着に着替える。その間にあおいは、再び洗面器にお湯を入れて来た。


「気持ちよくなりましたですか」


「うん。かなり汗をかいてたからね。さっぱりしたよ」


「それはよかったです。では最後に、髪を失礼しますです」


 そう言うと、少し熱めのお湯に新しいタオルを入れて絞ると、頭にのせた。


「このままマッサージしますです」


 あおいが後ろから、頭をマッサージするように髪を拭いていく。力加減も絶妙で、直希はしばらくこのまま続けてほしいと思った。

 しかし、あおいの息づかいと一緒に、背中に当たっている胸が上下する感触に気づくと、


「あおいちゃんあおいちゃん、あ、ありがとう、もういいから」


 と慌てて言った。しかしあおいはお構いなしで、


「まだですよ直希さん。もう少しマッサージ、させていただきますです」


 そう言って手を止めなかった。


 やわらかなふくらみが背中を刺激する。直希はたまらずうつむいた。


「駄目です直希さん、ちゃんと顔をあげてくださいです」


「は、はい……」


「ふふっ……直希さんはずっと働いて、そしていつも仕事のことばかり考えていますです。だから頭も、ほら……とても固いです。たまにはこうして、やわらかくしてあげないとです」


「……」


 やわらかい物なら、俺の背中に十分当たってるから……そう思いながら、直希はもじもじと身をよじらせた。


「では乾いたタオルで、拭かせていただきますです」


 まだ続くのか……もう勘弁してください、熱があると、色々なところが敏感になってるんです……そんなことを思っている内に、ある意味拷問とも言える至福の時間がようやく終わった。


「直希さん、横になれますですか」


「ああ、うん……大丈夫、一人で出来るから」


 直希は慌てて布団にもぐった。


「ふふっ」


「え、何?」


 自分の体の異変に気付いたのかと、焦った様子であおいに聞いた。


「いえ、ここに来てから私、いつも直希さんにお世話されてばっかりでしたので。だから今、ちょっと変な感じがしましたです。ごめんなさいです」


「あ、そういうことね……いや、俺は別に、お世話なんて偉そうなこと、出来てないよ」


「そんなことないです。それに私、今日思いましたです。直希さんは本当に、このあおい荘を大切に思ってるんだなって」


「……ただの自己満足だよ。それに今日、そのちっぽけなプライドも砕けちゃったし」


「そんなことないです。今日のことがあって、改めて直希さんは、このあおい荘に必要な人なんだって思いましたです」


「そう……かな」


「はいです。ですから直希さんには、いつまでも元気でいてほしいって思いましたです」


「……ありがとう、あおいちゃん。それに今日のことも……俺が倒れてからのこと、つぐみから色々聞いたよ。あおいちゃんが全部段取りを組んで、ちゃんといつも通りの時間に全て間に合わせてくれたって。入居者さんたちも喜んでたって」


「そんなことないです。それはつぐみさんや菜乃花さんがいてくれたからです。私一人では、何も出来なかったと思いますです」


「そんな優秀なスタッフなのに、俺はいつまでも半人前扱いして、全部自分でやろうとしてた」


「私が半人前なのは、本当のことです」


「そんなことは……ごめんね。これからはもっと、みんなのことを信頼して、みんなであおい荘を守っていけるようにしていくよ」


「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」


「……あおいちゃん?」


「昔の軍人さんの言葉です。偉い人だったようですが……確か山本……」


「山本五十六?」


「そうです、五十六さんです。さすがです直希さん、物知りです」


「あ、いや……その言葉を知ってる方が、物知りだと思うけど」


「この言葉、姉様が好きなんです。だから私も、覚えてしまったんです」


「いい言葉だね」


「はいです。どうか直希さんには、私たちにこうあってくれればって思いますです」


「……だな。分かった。肝に銘じるよ」


「はいです。そしていっぱい誉めてほしいです。私は誉められると元気いっぱいになりますです」


「了解。あおいちゃんには、他の人以上に誉めるとするよ」


「ふふっ、楽しみにしてますです。では直希さん、私はそろそろ失礼しますです」


「うん。今日は本当にありがとう。それから、ごめんね」


「いいんです。気にしないでほしいです」


 そう言うと、横になっている直希を優しく抱き締めた。


「あ……あおいちゃん?」


「直希さん。私たちはずっとここにいますです。いつだって、直希さんの力になりたいって思ってますです。みんな直希さんのことが大好きです。私も……直希さんのことが大好きです」


「あ……その……」


 耳元であおいが囁く。甘い香り、やわらかな温もりが直希を包み込む。


「だから……直希さんのこと、大切にしてあげてくださいです。これは私からのお願いです」


 ゆっくりと体を離し、あおいが照れくさそうに笑った。


「では、おやすみなさいです」





 あおいが去った後、動悸が収まらない直希は身をよじらせ、動揺を打ち消そうとした。呼吸が乱れ、また体が熱くなっていくのを感じていた。


 目を閉じると、あおいの温もりが蘇ってくる。あおいのその、全てを包み込むような笑顔が鮮明に映し出される。


 直希は何度も寝返りを打ち、これまで感じたことのない感覚に苦しむのだった。

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