第35話 ちっぽけなプライド
あおいたちが仕事に追われている頃、直希は東海林の診察を受けていた。
「どう?お父さん」
診察を一通り終わらせた東海林が、不安な目で見つめる娘、つぐみに言った。
「大丈夫だよ。疲れが溜まっていたんだろう。それで弱ったところに風邪でももらった、そんな所だな」
「よかった……」
父の笑顔に、つぐみは脱力して大きく息を吐いた。
「おいおい、いくら知り合いでも、患者さんの前でそんなに動揺するもんじゃないぞ」
「うん……うん……分かってる、ごめんなさいお父さん」
「まあ、相手が直希くんだから、仕方ないとも思うがな。はっはっは」
「もう……何よそれ……」
「そういうことだから。直希くんも心配しないでいいよ」
「……おじさん、ありがとうございました。じゃあ俺、仕事があるんで」
そう言って布団から抜け出そうとする直希を、つぐみが押さえつけた。
「何馬鹿なこと言ってるのよ。今の話、聞いてなかったの?」
「聞いてたよ。ただの過労だろ?それにほら、注射もしてもらったし、熱もじきに下がるから」
「いい加減にしなさいよ、何であなたはそう……馬鹿なのよ」
「いや……ごめんな、つぐみ。でも俺が行かないと、みんなの今日の夕飯が……それに風呂だって」
「もうみなさん、お風呂に入ったみたいだよ。それにほら、今は6時、もう食べてる頃だよ」
「……でも、どうして……」
「あなたね、あおいと菜乃花のこと忘れてるの?このあおい荘にはね、オープンした時と違って、優秀なスタッフがいるんだから」
「あおいちゃんと菜乃花ちゃんが……」
「もう少ししたら私も合流するから。だから直希は休んでなさい」
「ただの過労だぞ。それにほら、熱も下がってきた気が」
「いい加減にしなさい!」
つぐみが厳しい口調で言った。
「あなたも社会人なら、過労死って言葉ぐらい知ってるでしょ?過労だからって馬鹿にしてたら、取り返しのつかないことになるんだから」
「そんな大袈裟な」
「直希くん。つぐみの言う通りだ」
「おじさんまで」
「勿論過労死と言っても色々ある。誰が見てもこれは駄目だろう、そういうのはニュースにもなっている。だがね、医者の立場として言わせてもらえば、そういう明らかに分かる物ではなく、分かりにくい物の方こそ怖いんだよ。自分は大丈夫、そう思って無理をする。まさか自分が、これぐらいで死んでしまうなんて思ってもいない。過労で亡くなる人の多くは、そういう人たちなんだ。そして直希くん、君は明らかにそっちの方だよ」
「いやおじさん、俺はちゃんと夜も眠れてるし、そんな大袈裟な」
「そういう人の方が怖いって、たった今言ったばかりだよ。とにかく今日は……いや、明日一日は大人しく寝てなさい。これは主治医としての命令だよ」
「……」
直希が、何か言いたげな顔をしたままうつむいた。
「はっはっは。そういうところ、子供の時のまんまだね。不満はあるけど言い返せない、そういう時は必ずその顔をする。
まあとにかく、つぐみも言った通り、ここには優秀なスタッフがいるんだ。少しは彼女たちのこと、信頼してやらないかね。スタッフのことを信頼するのも、雇用してる者の努めだよ。明日も夕方に診に来るから、それまでは安静にしてることだ」
そう言うと、東海林は鞄を手に、つぐみと共に部屋を出た。
「……」
一人になった部屋で、天井を見つめて大きなため息をつく。
「情けないな……」
いつも大きいことを言ってきた。そして、それが全て出来ると信じていた。
なのにこのざまだ。ちょっと疲れたぐらいで、熱を出し気を失ってしまった。
周りに迷惑をかけ、スタッフが働いているのに、自分は一人、のうのうと休んでいる。
巡り巡るその思いは、やがて自分への怒りに変わっていった。
「なんで俺は……」
「直希、入るわよ」
東海林を見送ったつぐみが、再び部屋に入ってきた。
「全く……医者を前にしてよくもまあ、あんな馬鹿なことが言えたもんね」
そう言って座ると、直希の額に手を当てた。
「ほらごらんなさい。熱、また上がってきてるじゃない」
「俺は元々、体温が高めなんだよ」
「それ、幼馴染に通用すると思ってるの?直希の体温は35℃台。平均より低めなの。直希にとって37.5℃っていうのは、普通の成人男子の38℃台と同じなの」
「でもな」
「でも、じゃありません。今食堂も見て来たけど、あおいと菜乃花、ちゃんとやってたわよ。それどころか、直希の心配してたわ。入居者さんも同じ」
「……悪い」
「そう思うなら安静にしてなさい。そして早く良くなること」
「……そうだな。確かにそうだ」
「それともう一つ言っておくわよ。直希が回復したら、もう一度あおい荘の仕事の割り振りを考えます。そして直希、あなたの休みもちゃんと作るから」
「おいおい、そんな何から何まで、急に変えなくても」
「いいえ、これは決定事項よ。こんな時じゃないと直希、聞く耳持たないんだから。それにこれはね、主治医であるお父さん、そしてあおい荘のスタッフ、入居者さん全員の意見なの。だから諦めなさい」
「……分かったよ。でもな、いきなり何もかも取り上げるなんてこと、しないでくれよな」
「取り上げるって、人聞きが悪いわね。でもまあ……ちゃんと言うことを聞くのなら、少しぐらい譲歩してあげてもいいわ」
「ありがとう、恩に着るよ」
「……ねえ直希」
「何だ?弱ってるのは確かだから、余り説教はしてほしくないんだが」
「……馬鹿」
「ははっ、ごめん、悪かったよ。で、何だ?」
「直希、あおい荘のオープンの時に私が言ったこと、覚えてる?」
「やっぱりそれか……だからな、弱ってる男に追い打ちかけるなって」
「あの時私、あなた一人でどうやっていくんだって言った。でも直希は、ここは介護施設じゃなくて集合住宅だから、職員を入れなくても法律上問題ないって。じゃあもし、直希が倒れたらどうするのって聞いたら、俺は倒れたりしない、頑丈なのは知ってるだろ、って」
「ははっ……今の状況だと本当、耳が痛いな」
「あおいたちがいてくれて、本当によかったわ」
「……そうだな」
「あおいね、あなたが倒れてすぐに、この後の仕事の段取りを考えてたの。スタッフの都合で、入居者さんたちのリズムを壊すわけにはいかないって。あおい、今日初めて、一人で小山さんの入浴介助したのよ」
「大丈夫だったのか」
「小山さんに聞いたけど、完璧だったみたいよ。不安に思うこともなかったし、とにかく丁寧で、自分のことをお姫様みたいに扱ってくれたって。優しいいい子が来てくれて、本当に嬉しいって」
「……そっか。あおいちゃん、立派に出来たんだ」
「直希の教え方がよかったんだろうって言ってたわ。これからは私や直希だけじゃなく、あおいにも介助をお願いしたいって喜んでた」
「ははっ、そう言われると照れるな」
「それに菜乃花も。夕食、一人で全部用意したみたい。時間に遅れることもなくね」
「そうなのか……菜乃花ちゃん、少しおっとりしてる所もあるから、時間が迫ってることは苦手だって思ってたのに……よく時間通りに作れたな。それも一人で」
「まあ、小山さんと文江おばさんも、少し手伝ってくれたみたいだけど。でもみんな、おいしいおいしいって喜んでくれてたみたいよ」
「……なんか嬉しいな」
「私たちがね、あの子たちの成長の邪魔をしてるところもあったんだって思った。いつまでも半人前扱いして、つい口を挟んで手伝っちゃって。でもね、本当にあの子たちの成長を願うのなら、任せることも大切なんだと思うの」
「そうだな。俺も反省しないと……落ち着いたら一度、二人にちゃんと謝らないとな」
「そうね。その時は私も一緒に謝るわ。だからね、早く良くなりなさい。いつもの元気な直希に会わせて」
「ああ、分かったよ」
「じゃあ私、ちょっと食堂を覗いてくるから。何かあったら携帯で呼んで」
「……つぐみ」
「何?」
「色々ありがとな。それと……心配かけて悪かった」
「なっ……ば、馬鹿。真顔でそんなこと、急に言わないでよ……後で夕飯も持ってきてあげるから、少し寝てなさい」
「ああ……」
「じゃあ後でね」
つぐみが出ると、急に部屋が広く感じて来た。
食堂から、みんなの笑い声が聞こえる。
一人横になり、天井を見上げる直希の目に、涙が浮かんできた。
「くそっ……なんだよこれ……寂しいな、俺……」
そう言って、頭から布団をかぶった。
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