第33話 直希不在のあおい荘


「直希さん、直希さん!」


 あおいに寄り掛かったまま、意識をなくした直希。あおいは直希を抱き寄せ、何度も名前を呼んだ。


「あ……あ……」


 コップを落とした菜乃花は、呆然と直希を見ている。


「菜乃花さん!おしぼりを持ってきてくださいです!」


 いつもと違うあおいの厳しい口調に、菜乃花は我に返り、


「は……はいっ!」


 そう言ってカウンター内に走った。


「直希さん、しっかりしてくださいです。大丈夫です、私たちが何とかしますです」


 直希の髪に指を通し、優しく撫でる。直希は苦しそうに、小刻みに息をしていた。


「あおいさん、これを!」


「ありがとうございますです。それからすいませんです、今すぐ東海林先生に電話してくださいです」


「わ、分かりました」



 おしぼりを額にそっと当て、汗を拭う。そのひんやりした感触に、直希が笑ったように思えた。


「直希さん……こんなになるまで働いて……どうしてもっと早く、私たちに言ってくれないんですか……私が頼りないからですか?もっとしっかりしてたら、こんなことに……ごめんなさい、ごめんなさいです……」


 あおいが肩を震わせ、直希を抱き締めた。


 そしてしばらくすると小さく息を吐き、厳しい表情で菜乃花に言った。


「菜乃花さん、先生はどうですか」


「ご、ごめんなさい。まだつながらないんです」


「……分かりましたです。じゃあ先に直希さんを部屋で寝かせるです。私が連れて行きますので、布団をお願いしたいです」


「は、はい、分かりました。でもその……鍵はどこに」


「ちょっと待ってくださいです……直希さん、失礼しますです!」


 そう言うと、あおいは直希のスボンのポケットに手を入れた。そして中を探り、鍵を取り出した。


「はいです菜乃花さん!お願いしますです!」


「はい!」


 鍵を受け取った菜乃花が、直希の部屋へと走った。


「直希さん……少しだけ辛抱してくださいです」


 あおいは直希を抱きかかえようとした。しかし持ち上げることが出来ず、やむを得ず両脇に腕を通し、そのまま部屋まで引きずっていくことにした。


「何かあったのかね、あおいくん」


 あおいたちの大声に、生田が食堂に入ってきた。


「あ、生田さん!ごめんなさいです、手を貸してほしいです!」


 直希の上半身を持ち上げているあおいを見て、生田は慌てて直希の足を持った。


「大丈夫かね、あおいくん」


「はいです。助かりますです。このまま直希さんの部屋まで、お願いしますです」


「分かった。じゃあゆっくりと」


 続けて出て来た祖父の栄太郎、祖母の文江は、気を失っている孫に驚いた様子で、直希の腰の辺りを一緒になって持ち上げた。


「直希、大丈夫か」


 部屋に入ると、菜乃花によって用意された布団の上に直希を寝かせた。


「ナオちゃんあんた、こんなになるまで無理して……ほんと、馬鹿な子だよ」


 文江が悲しそうな表情で、直希の頭を撫でる。


「文江さん、それから栄太郎さん、生田さんも。直希さんのことは私たちに任せてほしいです。もし病気なら、みなさんにうつす訳にはいかないです」


「あおいちゃん、この子は私たちの孫だから……気持ちは嬉しいけど、私にまかせておくれ」


「いいえ、文江さん。そんなことしたら、私たちが直希さんに怒られてしまいますです。どうか私たちに任せてほしいです」


「ばあさん、あおいちゃんの言う通りだ。わしらは外で待つとしよう」


「でもおじいさん……」


「お前がそんな顔してどうする。ここはみなさんに任せよう。大丈夫、きっとすぐによくなるさ」


「直希さんのことは、私たちが責任を持ってお守りしますです」


「……分かったわ。あおいちゃん、それから菜乃花ちゃんも……孫のこと、よろしくお願いします」


「はいです、任されましたです」


「は、はい。がんばります」


「じゃあ、私たちはこれで失礼するよ」


「生田さん、助かりましたです。ありがとうございましたです」


「ああ……あおいくんも、無理しないようにね」


「はいです」




 三人が部屋から出ると、あおいは直希の靴を脱がせ、布団をかけた。


「菜乃花さん、お願いがありますです」


「……は、はい、何をしたらいいでしょう」


「今日の晩御飯、お願いしてもいいですか。私は料理を作ることが出来ませんです。ですから菜乃花さんにお願いしたいです」


「大丈夫です。下準備は終わってますから、問題ありません」


「私はこれから、みなさんの入浴の見守りをしますです。それから小山さんの入浴介助もしますです」


「え、でも……おばあちゃんなら、私が……それに何だったら、おばあちゃん、今日のお風呂はなしでも大丈夫ですから」


「いいえ、それは駄目だと思いますです。こんな時だからこそ、いつも通りにちゃんとやっておきたいです。でないと直希さん、ゆっくり休むことが出来ませんです」


「でも、その……あおいさん、介助を一人で」


「私もこの前、ヘルパーの資格を取れましたです。もう一人前のヘルパーなんです。確かに一人でしたことはありませんが、ちゃんとやってみせますです」


「……分かりました。じゃああおいさん、おばあちゃんのこと、よろしくお願いします」


「はいです。頑張りますです」


 そう言って笑ったあおいを見て、菜乃花も笑顔を見せた。


「ただいまー」


 その時、玄関先からつぐみの声が聞こえた。


「あれ?ちょっと、誰もいないの?」


「つぐみさんが帰って来てくれましたです!菜乃花さん、これでもう大丈夫です!」


「は、はいっ!」


「つぐみさん!こっちに来てくださいです!」


「あおい?どこにいるの?」


「直希さんの部屋です!お願いです、すぐ来てくださいです!」


「なんで直希の部屋に……分かった、また何かやらかしたのね」


 笑いながら部屋に入ってきたつぐみの目に、布団に横たわる直希の姿が映った。


「え……直希……?」


「つぐみさん、直希さんが急に倒れてしまったんです。熱もありますです。お願いです、何とかしてくださいです」


「……」


 つぐみはその場に立ちすくみ、直希をじっと見つめている。膝が震え、目は見開かれていた。


「つぐみさん!」


 あおいの声に、つぐみの体がピクリと動いた。そして小さく息を吐くと、両手で頬を何度か叩いた。


「……ごめんなさい、大丈夫よ。後は私に任せて」


「はいです、お願いしますです」


 直希の横に座ると、額に手を乗せ、次に脈をとりながら呼吸を確認する。


「それであおい、夕食の準備とかどうなってるのかしら」


「はいです、菜乃花さんにお願いしましたです」


「そう、分かったわ。菜乃花、任せてもいいかしら」


「は、はい。直希さんが下準備をしてくれてましたので、問題ありません」


「お願いね。もし人手が足りないようだったら、文江さんにお願いしてもいいわよ。私からも後でお願いしておくから」


「私は今から、入浴介助に入りますです」


「……そうね、入浴介助……あおい、今日があなたの介助デビューよ。いきなりだけど、大丈夫よね」


「はいです。やってみせますです」


「信頼してるわよ。大丈夫、あなたならきっと出来る。私が教えたこと、講習で学んだことを思い出して、しっかりやりなさい」


「分かりましたです。では今から準備にかかりますです」


「わ、私もがんばります」


「直希のことは任せて。お父さんにも連絡しておくから。じゃあみんな、頑張っていくわよ!」


「はいです!」




 あおいたちが部屋から出ると、つぐみは小さく息を吐き、直希の髪をそっと撫でた。


「……馬鹿……馬鹿直希……なんであなたは、いつもそうなのよ……今のあおいたち見たでしょ。みんな、あなたが思ってる以上に出来るんだから……」


 そう言って、肩を小さく震わせた。

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