第31話 大切なこと


「ではでは文江さん。血圧測らせてもらいますです」


 朝のバイタルチェック。つぐみが見守る中、あおいが直希の祖母、文江に腕帯を巻いて測定する。


 あおいが使用している血圧計は、市販の測定器。つぐみは水銀式にこだわっているが、最近の電子計測器でもかなり正確な数値が出るようになっているので、あおいたちが使用する分には構わないと許可を出していた。


「はい、終わりましたです。文江さん、今日も健康そのものです」


「うふふふっ。ありがとう、あおいちゃん」


「うっ……」


 つぐみが口を押えてうつむいた。


「どうしたんですか、つぐみさん」


「あ、うん……あおい、立派になったなって思って……」


「ええええっ?血圧測っただけでですか?」


「うふふふっ。つぐみちゃん、毎日大変だったものね」





 あおいを連れて初めてバイタルチェックに行った日。


 この日はつぐみが、各部屋に入って入居者の血圧を測っていた。


 まずは私の動きを見ておきなさい、見て学ぶことも大切だから。

 つぐみの言葉にうなずき、あおいはつぐみの動きを観察した。


 体温、血圧を手馴れた様子で測っていき、そして前日の排便回数等を聞いて記入する。その後、体調に変化がないかを確認し、気になったことがあれば記録する。

 そしてその間中、ずっと笑顔で接していた。




「じゃああおい、私の血圧、測ってみなさい」


「あ……は、はいです!」


 昼の休憩時間を利用して、食堂での測定講習が始まった。


 腕帯を手に取り、つぐみの方を向く。


「朝、私が測ってたの、ちゃんと見てたわよね。その通りにすればいいのよ。6人分の計測を見てたんだから、出来るはずよ。私を入居者さんだと思って、声掛けも忘れないようにね」


「は、はいです……ではつぐみさん、失礼しますです」


 あおいはつぐみの腕を取り、筒状の腕帯を通そうとした。


「はい間違い。やり直しよ」


「ええっ?何か間違ってますですか?というか、まだ測ってもないのですが」


「あおい、あなたちゃんと見てた?そりゃ、私が使ってた水銀式とは勝手が違うけど、それでもやることは同じよ。はい、もう一度初めから」


「はいです……ではつぐみさん、血圧を測らせてもらいますです」


「ええ、お願いするわ」


 つぐみが腕を差し出す。その腕をつかみ、再び腕帯に通そうとする。


「はい、間違い」


「ええええええっ?どうしてですか」


「あおいなら……ひょっとしたら出来るかなって思ったんだけど、やっぱりそうなっちゃうのよね、初めてだと……じゃあ、私がやってみるから。あおい、入居者さんをやってね」


「は……はいです……」


 何が悪かったのか分からないでいるあおいが、首をかしげながら血圧計を渡した。


「じゃあ風見さん、血圧測らせてもらいますね」


「はいです、お願いしますです」


 そう言ってあおいが腕を出すと、先ほどのあおいのように、つぐみがあおいの腕をつかんだ。




「え……」


「どう?分かった?」




「……」


 腕を上からつかまれたあおいの中に、妙な感覚が沸き起こってきた。


「なんだか……変な感じというか……それにその、ちょっと怖いかも、です……」


「でしょ?さっきあおいは、私に同じ思いをさせたのよ。私はあなたの同僚だし、その……いずれ友達になるのかも……だから大丈夫かもしれない。

 でもね、朝目覚めたばかりの入居者さんに、こんな思いさせたいと思う?」


「つぐみさん、これ、何なんですか?私の中にあるこの変な気持ちって、何なんですか」


「簡単なことよ。相手の腕を物みたいに持っちゃ駄目ってこと」


「物……みたい……」


「人にはね、感情があるの。そして尊厳があるの。こうやって上からつかまれたら、どんな綺麗な言葉を紡がれても、自分が物扱いされてる気持ちになってしまう。ぞんざいに扱われてるって、すごく嫌な気持ちになっちゃうの」


「なるほど……確かに、確かにそうです。私今、ちょっと悲しくなってしまいましたです」


「だからね、あおい。入居者さん、利用者さんの体を持つ時は、絶対につかんじゃだめなの。それも上からは厳禁よ。こういう時は、こうして持つといいの」


 腕帯を置いたつぐみが、そう言ってあおいの手を両手で下から支えた。


「どう?さっきと比べて」


「……全然違いますです。何て言うか……すごく大切に扱われてる気持ちになって、嬉しくなりますです!」


「でしょ。ちなみに小山さんのように、車椅子の方の時。足元に台があるでしょ、フットサポートって言うんだけど。それに足を乗せる時も同じよ」


 そう言ってあおいの前に跪くと、あおいの足首を握った。


「ひゃっ……」


「これも同じ。どう?すごく嫌な気持ちにならない?」


「はいです……泣きたくなりますです」


「でもね、それをこうしたら……どうかしら」


 左手であおいの踵に触れ、少し自分の方へとやる。そして足の裏を右の掌の上に乗せ、そのまま持ち上げた。


「こうして乗せる」


「すごい……すごいですつぐみさん。何だか私、お姫様になった気分です」


「ま、まあ……そうね、間違ってはないかしら、その例え」


 再び椅子に座ると、あおいを見て微笑んだ。


「膝の裏側、ふくらはぎの上の方を手前に寄せる人もいるわ。その方が足を持ち上げやすいから。

 要はね、相手に対する気持ちが大切だってこと。介護の仕事って、難しいことも覚えなくちゃいけないけど、一番大切なのは、どこまでも相手の気持ちになってお世話させてもらうことなの。

 あおいは明るくて温かくて、誰に対しても優しい。だからこそ、一つ一つの動作にも気を配ってほしいの。自分がされて嫌なことを、相手にしちゃいけない」


「分かりましたです。教えてくれてありがとうございますです」


「それじゃあもう一度、初めからね。私の血圧、測ってもらえるかしら」


「はいです!ではではつぐみさん、失礼いたしますです!」


 そう言って腕帯を持ったあおいが、つぐみの腕を下から支えた。


「あ……あれれ?」


 支えたはいいが、その後どうやって筒状の腕帯を通せばいいか分からず、あたふたしてる内にまた腕をつかんでしまった。


「ふふっ」


「あ……ご、ごめんなさいです」


「そうね、今のはちょっと、私が意地悪だったわね。貸してごらんなさい、この場合はね、こうするのよ」


 つぐみは腕帯を自分の腕に通すと、あおいに手を差し出した。


「はい、風見さん。握手しましょうね」


「え?」


 何を始めたのか分からず、首をかしげながらつぐみと握手する。


「そしてね、こうするのよ」


 あおいと握手したまま、つぐみが腕帯を、するするとあおいの腕へと移動した。


「す……すごい、すごいですつぐみさん」


「こうすれば、相手の腕をつかむこともないでしょ」


「はいです。それにその……握手されて、何だか嬉しいです」


「分かった?今の気持ち、忘れないでね。つかまれて嫌だった気持ち、大切にされて嬉しかった気持ち。それを忘れなければ、あおいならきっと立派なヘルパーになれるわ」


「はいです!つぐみさん、ありがとうございましたです。これからも色々と、教えてほしいです!」





(本当……成長したわね、あおい……)


「……つぐみさん?」


 うつむき涙ぐむつぐみを見て、あおいが心配そうに声をかけた。


「私、また何か失敗してましたですか?」


「あ、ううん……大丈夫よ、ごめんなさい。何だかね、あおいも少しずつだけど、立派なヘルパーになっていってるなっ思って……嬉しくなっちゃったの」


「うふふふっ。つぐみちゃんも、いい先生になったわね。直希もきっと、喜んでるわよ」


「なっ……も、もぉ文江さんってば、からかわないでください」


「うふふふっ」


「でも、まあ……ちょっと嬉しいです。ありがとうございます、文江さん。それと、あおいも……ね」


 そう言って、つぐみが照れくさそうに笑った。

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