第19話 寡黙な男・生田さん


「東海林医院で働きだした頃。お前は張り切って、いつも夜遅くまで患者さんのカルテに目を通してた。

 患者さんって言ってもこんな小さい街だから、ほとんど顔見知りの人たち。お前、いつの間にかこの街のみんなの健康状態、把握してたもんな」


「……私はこの街も、この街に住むみんなのことも好き。だから私は、私が出来る精一杯のことをしようと思ってた」


「おかげでお前は睡眠不足が続き、注意力も散漫になった。そんなある日、お前は岡田さんの薬の処方を間違えてしまった」


「……」


「お前を知ってる俺からしたら、ありえないミスだった。低血圧の岡田さんに降圧剤を処方してしまって」


「……夜、処方箋をチェックして、目の前が真っ暗になったわ。処方箋から目が離せなくなって、その場から動けなくなった。

 そんなことしてる場合じゃない、すぐ連絡しないと……そう思ってるのに、何も出来なかった。

 父さんがそんな私に気づいて処方箋を見て、慌てて連絡をしてくれた。岡田さん、もう既に夜の分を服用してたけど、特に異常はないみたいだった。車で岡田さんの家に行って、お父さんが処置してくれたから大事に至らなかったけど……私は泣きながら謝ることしか出来なかった」


「……」


「間違いは誰にでもある。ミスをする、それが人間、それは分かってる。でもね、私たちの仕事は、そのたった一つのミスが、取り返しのつかないことにだってなるの。人の生死に関わることなんだから。

 あおいにそんな思いをさせたくない……だから、だから私……」


 そう言って膝に顔を埋め、肩を震わせた。


 そんなつぐみを抱き寄せ、直希は囁いた。


「分かってる。分かってるよ、つぐみ」





 夜。


 食堂で、直希はいつもの様に入居者たちの健康ノートに目を通していた。


 このノートには、入居者たちの年齢、家族構成に身長や体重などの基本情報が書かれている。また、血圧や体温、服用してる薬と服用したかどうかのチェック、排便排尿回数、水分と食事の摂取量の記録もされていた。


 勿論すべてを管理することは出来ない。排便等に至っては、それぞれの申告にゆだねるしかないが、全く管理しないことを思えば、ないよりはましだった。


 記録を続けることで入居者の状態を把握し、異常が認められる場合には見守りを強化する。先日の山下の認知症の症状も、このノートがあるから他のスタッフに情報が行き届き、サポートすることが出来る。


 山下はあの日以来、特に変わった様子もなく、穏やかな生活を続けている。だがいつまた、突然症状が出て来るかもしれない。


 スタンドの灯りの下、直希は一人一人のノートに目を通し、気になったことを記録していた。


 彼の祖父母、山下、小山、西村。


 そして最後、生田のノートを手にした直希は、小さく息を吐いた。


 パラパラとページをめくる。


 生田兼嗣76歳。4年前に奥さんを亡くされている。子供は長男と長女の二人。長男は妻と息子の三人で暮らしているが、孫の受験や仕事が忙しいとの理由で同居を拒否。長女は独身で、現在遠方に住んでいる。


「……」


 いつも静かで無口な男。ADL(日常生活動作)にも全く問題のない彼一人を引き取った所で、孫の受験に何の問題が生じるというのだろう。そしてそのことに、息子の嫁が関与していることは、ここで初めて会った時に気づいていた。


 生田のことを、ただの厄介者としか見ていなかったあの視線。しかし生田は全く意に介していない様子であおい荘の敷居をまたぎ、自分に深々と頭を下げ、


「これからよろしくお願いします」


 そう言ってくれた。


 いつも部屋で一人、読書にふけっている寡黙な男。直希は生田のことが好きだった。

 時折見せる優しい笑顔に、今は亡き父の面影を重ねることもあった。


「……」


 気配に振り向くと、入り口に生田が立っていた。


「生田さん、どうかされましたか」


 壁にかかった時計を見ると、9時を少し回っていた。


「……いや、特に何もないのだが……今日は少し、寝つきが悪いようだ」


 直希はノートを閉じて片付けると、中に入るようにうながした。


「俺も今日の仕事は終わったところです。お茶、一緒にどうですか」


「……ああ」


 生田がうなずき、直希の向かいに座る。

 直希はカウンターへ行き、湯飲みにお茶を入れると、将棋盤を手にテーブルへと戻って来た。


「やりますか」


「……ああ」


 静まり返った食堂に、駒を進める音だけが響く。


 直希も生田も、言葉を交わすことなく盤上に意識を集中させる。

 しかし一手一手と進める二人の間には、言葉はなくとも通じあう物があった。

 互いにそのことを理解している。言葉は不要だった。




「王手」


「……まいりました」


 生田の王手で、一時間ほどの勝負に決着がついた。


「やっぱり強いですね、生田さん」


「いや……直希くんも、腕をあげたね」


「ははっ、恐縮です」


 直希の言葉にうなずくと、生田はゆっくりと立ち上がった。


「じゃあ、私はこれで」


「生田さん、折角です。よかったら一緒に、どうですか?」


 そう言って直希が、煙草を吸う仕草をした。生田は小さく微笑むと、そのまま玄関へと向かった。




 満天の星空の下、直希と生田が肩を並べて立っていた。


 直希が煙草を差し出すと、


「……ありがとう」


 そう言って生田が一本取り出した。直希がつけたライターの火に煙草を近付ける。


「……いい夜ですね」


 白い息を吐き、直希がつぶやいた。


「……ああ」


 耳には波の音と、虫の鳴き声が聞こえる。


「今年の夏も暑いですね」


「……ああ」


 何の変哲もない会話が続く。しかし二人にとって、それは決して居心地の悪いものではなかった。


 むしろ、それ以上言葉を紡ぐ方が、不自然でもあった。

 淡々とした会話。それだけで十分だった。


 しばらくして、煙草を揉み消した生田が、直希の肩に手をやった。


「……じゃあ、これで」


「はい。おやすみなさい、生田さん」


「付き合わせてしまって、悪かったね」


「いえ、こちらこそ付き合ってもらって。それで……生田さん、あの話は」


 その言葉に、生田が無言でうなずいた。


「分かりました。じゃあ明日、俺からみんなに伝えます」


「……ああ、すまないね」


「いえ、俺の方こそ、何の力にもなれなくて」


「じゃあまた」


「ええ、おやすみなさい」


 生田が中に戻ると、直希はもう一本煙草に火をつけ、白い息を吐いた。


「……」

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