第17話 貴婦人山下さん


「山下さん、おじゃましますです」


「あらあらあおいちゃん、ようこそ。うふふふっ」


 掃除機を持ったあおいが、山下の部屋へと入ってきた。


「いつもありがとう、あおいちゃん」


「いえいえ、これも大切なお仕事ですです」


「それで?今日はお昼、来れそうかしら」


「はいです。菜乃花さんも手伝ってくれるようになりましたので、休憩時間もしっかり取らせてもらってますです。お昼ご飯が終わったら、すぐにお邪魔させていただきますです」


「楽しみに待ってるわね。あおいちゃん、今日はどんな気分かしら」


「はいです、今日は楽しいのが見たいです」


「楽しい気分なら……これなんかどうかしら」


 山下がDVDを取り出し、あおいに見せた。


「『小さな恋のメロディ』……いいですね。私、この映画大好きです」


「うふふふっ、やっぱり知ってた?」


「はいです。ちっちゃな男の子と女の子の恋の物語。これを観ると私、すごく幸せな気持ちになれるです」


「本当に罪のない物語よね。私も大好きなの」


「最後のシーン、二人に向かって『幸せになってください』って叫びたくなりますです」


「分かるわ、それ。私もそうだもの」


「お昼が楽しみになってきましたです」


「うふふふっ、私も楽しみに待ってるわ」


「ではその前に、お部屋のお掃除しますです」


「はい、お願いね」


 あおいが窓を開け、床に置いてある荷物を片付ける。


 小さなテーブルの上には、山下が趣味で作った造花を入れた器が、写真立てを囲むように並んでいる。

 写真には子供と孫たちが写っている。


 戸棚と箪笥の間に小さめの仏壇、そこに山下の夫の遺影が祀られていた。

 掃除機をかけ、その後でテーブルの上や仏壇を丁寧に拭いていく。


 最初の内は花瓶をひっくり返し、遺影を倒して落ち込んでいたが、めげずに毎日やっていく中で、少しずつ手際もよくなっていた。


「あおいちゃん、ここに来てどれくらいになるのかしら」


「はいです、もうすぐ一か月になりますです」


「あら、もうそんなになるのね。早いわねえ、時間が経つのって」


「でも私、全然直希さんのお役にたててなくて……ちょっと落ち込んでますです」


「そうなの?」


「はいです。つぐみさんや菜乃花さんを見てると、どんどん自信、なくなってしまうです」


「ほらほらあおいちゃん、そんな顔しないの。はいこれ、お煎餅。食べる?」


「いいんですか!いただきますです!」


「うふふふふっ、そうそう、あおいちゃんはそうじゃないと。食べてる時のあおいちゃんって、本当幸せいっぱいの顔をしてくれるんだから」


「むぐむぐ……むぐむぐ……はいです、おいしい物を食べてると私、本当に幸せなんです……むぐむぐ……」


「うふふふっ、あおいちゃん、本当に可愛いわね」





「あら、山下さん。映画は終わったんですか」


「あらあらつぐみちゃん、こんにちは。さっき終わった所よ」


「今日は何を観てたんですか」


「『小さな恋のメロディ』よ。つぐみちゃん、知ってるかしら」


「えっ……は、はい、観たことあります……」


「あら、どうしたの?なんだか顔、赤いわよ」


「な、なんでもないです。それで、あおいはもう部屋に?」


「ええ。なんだかお腹いっぱいになったから、お部屋で横になるって言ってたわよ」


「そうですか。すいません、いつも面倒見てもらって」


「うふふふっ。いいのよ、気にしないで。私もあおいちゃんといると、とっても楽しいんだから」


「そう言っていただけると助かります。それで山下さん、お出かけですか?」


「いえね、そろそろお昼の時間じゃないかと思ってね」


「え……」


「今日は何だったかしらね。毎日暑いし、ちょっと精のつくもの食べたいわ」


「あの、その……山下さん?」


「何かしら。それにしてもおかしいわね、まだ食堂、準備出来てないの?」


「……そ、そうなんですよ、ちょっと朝の仕事が片付かなくて……ごめんなさい山下さん、もうちょっとだけ待っててもらえますか」


「ええ勿論。それにしてもつぐみちゃん、本当によく働いてくれるわよね。病院の仕事もあるのに、こうして休みの日にはここで働いてくれて」


「あ、ありがとうございます」


「あれ?どうしたの山下さん」


「な、直希、ちょっとこっちに」


「何だよつぐみ、引っ張るなって」


「直希ちゃん、お昼ご飯は何かしら」


「え?」


「まだ準備出来てないみたいだけど、遅くなりそう?」


「あははははははっ、何言ってるんだか山下さん。お昼、さっき食べたばっかりじゃないですか」


「ちょっと直希!」


「何だよつぐみ、とりあえず離してくれって」


「さっき食べたって、私が?」


「いえいえ山下さん、まだだから大丈夫よ。直希ったら本当、何言ってるのかしらね。暑さで疲れてるのかも」


「何言ってるんだよつぐみ、俺は元気だぞ」


「いいから直希、あなたはちょっと黙ってて」


「いやいや、つぐみこそ落ち着けって。山下さん、お昼はもう食べたよね。て言うか、もうすぐおやつの時間だし」


「……食べてないと思うけど」


「食べたよ、ウナギ」


「ウナギ?私、そんなの食べたかしら」


「なーに言ってるんだか。ほら山下さん、まだ口の中にウナギ、泳いでるよ」


「うふふふっ、直希ちゃんったら、またおかしなこと言って」


「ははははっ、あと少しでおやつだからね。今日は菜乃花ちゃんがケーキ、作ってくれてるんだ。また呼びに行くから、部屋で待ってて」


「分かったわ。また後でね」


 直希の返しに笑いながら、山下が上機嫌で部屋へと戻っていった。


「……ちょっと直希、今のって」


「入ってたよな、あれが」


「あれって……まさか山下さんが?」


「でもまあ、一時のことかもしれないし、しばらくは様子見かな。丁度良かったよ、つぐみが見てくれてて。後でおじさんにも言っておいてもらえるかな」


「それは勿論だけど……って直希、あなた介護福祉士の資格まで持ってるのに、何よ今の対応は」


「おかしかったか?」


「認知の症状が出てる人に、絶対しちゃいけないことでしょ、否定は」


「いいんじゃない?」


「そんな……あなた、なんでそんなに軽いのよ」


「だってあれは、相手が傷ついたり、落ち込むことで症状が悪化する恐れがあるからって理由だろ?今みたいに笑ってもらえたんならいいんじゃないかな。勿論程度や状況にもよるけど、さっきの山下さんの状態なら、あれもありかなって思ったんだ」


「……」


「介護で必要なのは、笑いだって俺は思ってる。どんな状況でも、お互い笑顔でいれば、大抵のことは乗り越えられるんじゃないかな。

 本当なら山下さんに『お昼の準備、まだなんですよ。出来たら声、かけますね。あ、そうだ山下さん、それでね……』とか言って、話題をそらすのが正解なんだって教わった。

 でも俺は、そんな上っ面の言葉で接したくない。軽い嘘はつきたくない。どうしても嘘をつかなきゃいけない時でも、誠実につきたいんだ」


「……」


「だけど俺の対応、現場だと怒られると思う。おかしいとつぐみが確信した時には、遠慮せず叱ってほしい。俺も手探りだから」


「……直希らしいわね。まあ確かに、介護の世界も答えが出てないことが多いし。何より一番大切なのは、入居者さんとの信頼関係だって私も思ってる。山下さんの様子は、気にかけて見ておくわ」


「悪いな、つぐみ」


「わ、私だって看護師、って言うか医者の卵なんだから。これぐらい当然よ」


「どこ行くんだ?よかったら食堂でお茶、一緒に飲まないか?」


「あおいの所よ。そろそろ起こさないと、お風呂の掃除、まだでしょ」


「そっか。じゃあ頼むよ」


「ええ。それじゃまた後で」


 部屋へと向かうつぐみに手を振りながら、自分も山下さんのこと、気をつけて見ておかないとな、そう思う直希だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る