第3章 あおい荘の夏

第11話 あおい荘の怪


 深夜。


 蒸し暑さに、つぐみが目を覚ました。

 枕元に置かれた時計を見ると、2時を少しまわっていた。


「ほんと、暑いわね……」


 汗を拭い、布団から出たつぐみが窓際に立ち、カーテンを少し開ける。


「私……本当に来ちゃったのね、直希のところに……」


 そう思うと、口元が自然と緩んだ。両手を口に重ね、小さく笑う。





 直希とは保育園からの付き合いになる。


 気になったことは、口に出さないと気が済まない性分で、それが元でいつも周囲とトラブルになっていた。

 男子からはいじめられ、女子からも敬遠される存在だった。


 自分は正しいことを言っているのに、なぜこうなってしまうのか。

 幼いつぐみには、それが理解出来なかった。


 しかしそんな彼女にも一人だけ、友達と言える存在がいた。


 それが直希だった。


 直希だけは、口うるさい自分を嫌がることなく、いつも傍にいてくれた。

 いじめられそうになった時も、かばってくれた。


 そんな直希のことを、異性として意識しだしたのはいつからだったのだろう。


 つぐみはまた、小さく笑った。


 考えるまでもない、あの時だ。


「直希……ちゃんと眠れてるかな……」


 月明かりに照らされた庭の池をみつめ、そうつぶやく。

 耳を澄ませば、波の音がかすかに聞こえた。


「静かね……」


 その時、食堂の方から物音が聞こえた。


「え……こんな時間に、誰かいるの……まさかとは思うけど直希、朝食の準備してるんじゃないわよね」


 カーディガンをはおると、つぐみは扉を開け、食堂へと向かった。





「……」


 気のせいじゃない。誰かが食堂にいる。


 非常灯の灯を頼りに、つぐみが忍び足で中をうかがう。

 物音は、奥のカウンターの方からしていた。




 何かを咀嚼しているような音。




「誰か……そこにいるの……」


 声を出して初めて、自分が怯えていることに気づいた。


 いつもの歯切れのいい物言いではなく、震える声は、自分でもよく聞き取れないほどだった。

 そしてそのことに気づくと、今度は膝も震えて来た。


 口の中が乾き、唾を飲み込むことも出来ない。


 どうして来てしまったのかと、後悔の念が沸き上がってきたその時、カウンターの人影がゆらりと動いた。


「ひっ……」


 怖くて今すぐ逃げたかった。しかし自分の中にある、間違ったことを許さないという思いが、足を前に進めた。

 直希が認めてくれた、自分の正義感を曲げたくなかった。


 大きく息を吐くと、つぐみが意を決してカウンターの中を覗き込んだ。




「え……」


 見下ろすと、そこには冷蔵庫を開け、何かにむさぼりついているあおいがいた。


「な……なんだ、あおいだったのね……全くもう……」


 極度の緊張から解放されたつぐみが、笑みを浮かべてあおいの肩に手をやった。


「ちょっとあおい。こんな夜中に何やってるのよ」


「……」


 無言で振り返るあおい。冷蔵庫の灯りに照らされたその顔に、つぐみの目が恐怖で見開かれた。


「ひっ……」




 ――あおいの口元は真っ赤に染まっていた。




「いやああああああああっ!」


「わあああああああああっ!」


 つぐみの絶叫に同期して、あおいも悲鳴をあげた。


 つぐみはそのまま腰砕けになり、四つん這いで遠ざかろうとした。


「つぐみさん、待って、待ってくださいです」


 あおいが立ち上がり、つぐみの後を追いかける。


 しかしつぐみは振り返ることなく、涙目で叫んだ。


「直希、直希!助けて直希!」


 つぐみの足をつかんで引き寄せると、あおいが馬乗りになった。


「ごめんなさいですつぐみさん、私、お腹が空いて眠れなかったんです」


「やだ、やだ!近寄らないで!」


 つぐみが泣き叫び、手足をばたつかせる。そのつぐみの頬に、あおいの口元から真っ赤な何かがポタリと落ちる。


「いやああああああああっ!」


「どうした!」


 慌てて入ってきた直希の目に、床の上でもみ合っている二人の姿が映った。


 つぐみの上に馬乗りになり、腕をつかんで「ごめんなさいです、ごめんなさいです」と叫ぶあおい。


 手足をばたつかせ、泣きながら抵抗するつぐみ。


 その姿に直希は、腕を組んで大きくため息をついた。


「ナオちゃん、どうしたんだい?」


 祖母の文江が、何事かと食堂にやってきた。しかし直希は文江を制し、首を横に振った。


「いや、大丈夫だよばあちゃん。ここは俺一人でいけるから、ばあちゃんは部屋に戻ってて」


「大丈夫なのかい?」


「ごめんね、夜中に騒いじゃって」


「そうかい?ならいいけど……じゃあ部屋に戻ってるね」


「うん。おやすみ、ばあちゃん」


 文江が部屋に入るのを見届けると、直希は二人の元へと近寄った。


「で?何してるのかな、二人は」


「あ……直希さん、ごめんなさいです、ごめんなさいです」


「直希!直希!」


「うん、まあ……大体分かったけど、とりあえずあおいちゃん、つぐみから離れようか」


「は……はいです……」


「つぐみ?大丈夫か?」


 頭に伝わる手のぬくもり。見上げるとそこに、苦笑する直希の顔があった。


「ナオちゃん、ナオちゃん!うわああああああっ!」


 つぐみが起き上がり、直希の胸に飛び込んだ。


「怖かった……怖かったよナオちゃん、うわああああん」


「だな……怖かったな、つぐみ」


 直希は笑いながら、つぐみを優しく抱き締めた。


「あおいがね、あおいがね、人を食べてたの……あんな可愛い顔してるのに……」


「え?」


「いくらお腹が空いてたからって……多分入居者さんの誰かだと思う……私、私……」


「あおいちゃん、何食べてたの?」


「は、はいですその……ごめんなさいです。冷蔵庫を開けたらトマトがあったんで、私……」


「そういうことね、理解したよ。あおいちゃん、もうお腹いっぱいになった?」


「あ……は、はいです。お陰様で眠れそうです」


「……ちなみに何個、食べたのかな」


「あのその……ごめんなさいです、冷蔵庫にあったのは、その……」


「全部ね、了解。後で補充しておくよ」


「ごめんなさいです……」


「いいよ、お腹が空いてたら眠れないもんね。部屋に戻ったら、もう一度歯磨きしてね」


「はいです……それでその、つぐみさんは」


 つぐみは相変わらず、直希にしがみついて泣いていた。


「つぐみのことは任せて。大丈夫だから」


「でもその……私のこと、人を食べてたって」


「つぐみは怖いのが苦手だからね。その癖想像力だけはたくましい。でも大丈夫、今見たこと、朝には全部忘れてるから」


「そうなんですか?」


「うん。怖い体験をしたら、脳が強制的に記憶を消しちゃうみたいなんだ。うらやましい機能だけどね」


「分かりましたです。ではでは直希さん、おやすみなさいです」


「うん、おやすみ。歯磨き、忘れないようにね」


「ふふっ……直希さん、姉様みたいです」


 そう言ってあおいが立ち上がり、部屋へと戻っていった。

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