第2章 直希争奪戦

第6話 あおい荘の一日


「嫌です!絶対嫌です!」


「あおい、いつまでも子供みたいなことを言うんじゃない。風見の家にとって、この縁談がどれだけ大切なことかぐらい、お前にも分かっているだろう」


「嫌な物は嫌です!あんな人と結婚なんて絶対にしないです!」


「これはお前一人の問題じゃないんだ。頼むから聞き分けておくれ」


「姉様みたいにですか?私たちは父様の道具じゃないです!」


「風見の家に生まれて、そんな勝手が許されると思ってるのか」


「もう、父様なんて知りませんです!私、この家を出ますです!」


「風見の家を捨てると言うのか。この家を出て、お前一人でどうやって生きていくというのだ」


「私だって、もう子供じゃないです!一人でだって、生きていけますです!」


「待ちなさい!あおい、あおい!」





「あおいちゃん……あおいちゃん……」


「私……風見の家なんか……もう知らないです……」


「おーい、あおいちゃん、起きて。朝だよ」


「え……」


 直希の声に、あおいがようやく夢から覚めた。


「おはよう、お嬢様。随分うなされてたみたいだけど、怖い夢でも見たのかな」


 そう言ってあおいの頭を撫でる。その温もりに、あおいの瞳から涙が溢れて来た。


「え?え?あおいちゃん、大丈夫?」


「うええええんっ!」


 泣きながら、直希を思いきり抱き締めた。


 直希の顔が、あおいのふくよかな胸に押し付けられる。


「ふがふが……」


「直希さん、直希さん!ずっとここに置いてくださいです、うええええんっ」


「ふがふが……」





「あ……あのぉ、さっきは……」


「あははははっ、気にしなくていいよ。怖い夢、見てたんだろ?」


「はいです、そうなんですけどその……大丈夫ですか?」


「ほっぺた?うん、大丈夫大丈夫」


 そう言って、手形のついた頬をさする。


 落ち着いたあおいが、胸に顔をうずめる直希に動転し、張ってしまった跡だった。


「本当にごめんなさいです!私、寝起きはいつもこうなんです。みんなに迷惑ばっかりかけて」


「いいっていいって。女の子の部屋に入った俺も悪いんだから」


「あ、そうでした。直希さん、どうやって私の部屋に」


「鍵、開いてたよ。確かにここはいい人ばかりだけど、それでも鍵はちゃんとかけた方がいいよ」


「そうなんですか……あ、昨日慌てて部屋に入ったから、かけるのを忘れてましたです」


「まあ、おかげで今朝は助かったけどね。目覚まし鳴りっぱなしだったから、どうしたものかと思ってたんだ」


「ごめんなさいです、ご迷惑を」


「今日は初日だし。そんなに気にしないで」


「でも直希さん、管理人なら鍵、持ってますよね」


「うん、一応は持ってるけど」


「じゃあまた私が起きなかったら、構わず入って来てくださいです。私、ちゃんと朝、起きたいですから」


「あおいちゃんがいいなら構わないけど」


「お願いしますです」


「分かった。じゃあそうするね。では今日も一日、よろしくお願いします」


「はいです!よろしくお願いしますです!」




 7時になり、入居者たちが食堂に集まってきた。


「おはようナオちゃん、あおいちゃん」


「おはよう、じいちゃんばあちゃん」


「あおいちゃんも、朝から頑張ってるね。ご飯、一緒に作ってくれたのかい」


「ううっ……」


「あらあら、どうしたんだいあおいちゃん、そんな顔して」


「直希ちゃんを手伝うつもりで、張り切ってたらしいんだけど」


 テーブルでうつむいているあおいの頭を、貴婦人山下が撫でていた。


「この子ね、お料理作ったことがないみたいなの」


「……いえ、家庭科で何度かやってましたです。でも私、みんなから危なっかしく見えるみたいで、いつも見学させられてたです」


「まあまあ。今日は初日なんだし、そんなに落ち込まないで。時間がある時に少しずつ、俺が教えてあげるから。包丁と火はまだちょっとだけど……まずは野菜を洗う所から」


「……ごめんなさいです、何も出来なくて」


「最初はそんな物だから気にしないで。それよりみんなのテーブルに、料理持って行ってくれるかな」


「はいです。それなら任せてくださいです」


「あ、でもゆっくりね。昨日みたいにこけないように」


「なんだいあおいちゃん、もうこけちゃったのかい」


「まあ仕方ないよ。あおいちゃんスリッパだし、まだ勝手が分かってないから」


「そうだね。早く上履き、買ってあげないと」


「ああ。今日にでも買いに行ってくるよ」


「ごめんなさいです、何から何まで」


「いいって。あ、生田さん、おはようございます」


「……おはよう」


「じゃあみんな揃ったみたいだし、朝食にしよう」




 朝食が済むと、入居者全員でラジオ体操をした。今日の様に晴れている時は庭で、雨の日はテーブルを片付けて食堂でする。

 ラジオ体操が終わると洗い物と、昼食の準備。その合間に洗濯と、各部屋の掃除を済ませる。

 朝の5時に起きてから昼食の時間まで、休む間もなく働いた。


「直希さん、これを毎日、お一人でされてたんですか」


「そうだよ。まあでも洗濯とかは、ばあちゃんも手伝ってくれるし、のんびりやってるよ」


「直希さん、ちゃんとお休み、取れてますですか?」


「俺は基本、年中無休。まあ仕事ってほどでもないし、全然平気」


「これを毎日、休みなく」


「ああでも心配しないで。あおいちゃんにはちゃんと、週に二日休みを出すから」


「いえ、そういうことではないんですけど……」


 あおいの心配を気にする様子なく、直希はそう言って笑っていた。




 昼食が終わり、入浴時間の3時までが、あおいの休憩時間になっていた。


 直希は夕食の準備をしながら、風呂の掃除をしている。

 自分も手伝いますと言ったのだが、初日から無理しちゃいけないと、半ば強制的に休まされていた。


 庭のベンチに座り、ぼんやりと空を眺める。


 強い日差しが目に少し痛かった。


 静かな昼下がり。耳をすませば、すぐ近くにある海から波の音が聞こえた。


「今日もいい天気です……」


 穏やかな時間。午前中の慌ただしさが嘘の様に感じられた。




 その時、乗用車が門から入って来て、家の前に止まった。


 中から出て来たのは、白衣を着た男と若い女だった。


「あら、どちら様?」


 看護師姿の女が、あおいに声をかけた。


「あの、その……昨日からここでお世話になってる、風見あおいと申しますです」


 あおいは慌てて立ち上がり、そう言って二人に頭を下げた。


「お世話に……って、えええええっ?」


「な、何か……」


「ちょっと直希!どういうことよ!」


 そう言うと、女は物凄い剣幕で玄関へと入っていった。


「直希!直希!」


 女の剣幕に、直希が食堂のカウンターから出て来た。


「つぐみか?どうしたどうした、暑いのに興奮して」


「誰が興奮してるのよ!それよりちゃんと説明しなさいよ」


「あ……あのその……直希さん、この方は」


「直希さん?直希、あなた名前で呼ばせてるの?」


「ああ、そういうことね、分かった分かった。とにかく玄関先で騒ぐなよ、中に入れって。麦茶だすから。ああおじさん、お疲れ様です」


「はっはっは、直希くんも色々と大変だね」


「ははっ……勘弁してくださいって」

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