当日
宇宙で水は貴重だ。こぶし大の浮かぶ湯にボディソープを溶かし、ハンドタオルに滲ませる。全身を丁寧に拭いてから別のタオルをすすぎ湯に漬ける。髪は手櫛で洗う。霧状の泡を掃除機で吸う。べとついた髪はドライヤーでなく撥水剤を撫でつける。どうりで女子職員が常駐しないわけだ。
3D印刷されたビキニに着替え、上着を羽織ってナースステーションに立つ。「こんにちわ」
頭上のカメラに作り笑いするといきなり後ろのドアが開いた。
私は生身の少女に後ろから抱き着かれた。「こんばんわ、ですよ♪」
森の小動物を思わせる円らな瞳。丸顔でぽっちゃりした体形は万人に愛される優しさがある。
「あ、荒瀬様?これは…」
私は戸惑いを隠せない。
「荒瀬真澄、ここの施設長です」
少女は名刺を投影した。どうなっているのだ。言葉を失ったまま着席した。
◇ ◇ ◇
本人が言うには自分は正真正銘の看護婦で二十歳だという。なるほど私の目には生身に見える。
「…高畑がそんな事を?」
彼女は認知症云々の話をきっぱり否定した。壊れているのは彼の方だ、と。
「しかし施設は現に軌道を外れて…」
私は覚醒以降に渡された資料を次から次へと示した。ファイルの参照先は漏らさず把握している。すると荒瀬はじっと私を見つめた。
「貴女は長い長い眠りから醒めたのですよね」
「ええ」
「その間の出来事を何処まで真実だと証明できますか?」
言われてみれば何一つ確かな物はない。そもそも私が入眠した理由は悪夢の如き現実から「覚める」為だった。世界的な感染症は経済のみならず環境や生態系を汚染しつつあった。需要が蒸発し縮小した社会は余剰人員を未来に分散させる政策を強いられた。私は極超高齢化社会を担う介護職として遺された。
「いいえ…それではこの状況は何なのです?私は仲間を失った」
茶番劇などと口走った瞬間に彼女を殺してやる。私は利用者を素手で制圧する訓練を受けている。
「これ以上、驚かせるのは忍びないのだけど…」
数週間前、一隻の輸送船が軌道上で遭難した。いや、事故を装ったのは軌道特養ほほえみだ。狙いは凍結人材の強奪。再生エネルギーと液体水素燃料の実用化に伴って地上人は余剰人員の放逐を開始した。ロケットすらリサイクルする時代。宇宙は海外より近くなった。冷却材が不要な場所に私は置かれていた。
「待って…貴女は誰?」
大よそらしからぬ振る舞いに私は気づいていた。荒瀬真澄を詐称している。
「貴女を助けに来たのよ。施設AIは認知症を自覚してる。ただ荒瀬本人の正義感が全てを歪ませている。自分で解決しようとして貴女を呼び寄せた」
「高畑も他の停止者も真澄が壊したのよ。我に返った彼女は責任を感じた」
「では老朽化や焼尽処分の話は?」
「軌道は既に狂ってるわ。事故時点でね。全て計算された自殺よ」
言っている内容が胡散臭い。私は続けて訊いた。
「どうして真澄に協力したの?殺されるわよ」
すると女は内懐から端末を取り出した。「迎えが来るわ。それまで黙ってた。貴女にも。互いの無知は最高の傍聴よ」
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