旅行1日目


湯けむりが香る温泉街。人通りは閑散としてるが一時期のように車道にまで外国人が溢れることもない。渓谷の入り口に「ようこそいんごうへ」という看板が一本あるかぎりは控えめな歓迎だ。

そこから見下ろすくぼ地には温泉の湧く池や平安時代から続くという木造建築が点在している。そしてぼうっと霧でかすんだ山並に柱のような高層ビルが建っている。

景観にマッチした薄紫色のデザインで水墨画のように溶け込んでいる。

「あちらが今日のお宿です」

白い和装の案内人が矢丼一行を招く。しばらくすると合掌造りの屋根を載せた漆塗りの車が迎えに来た。小さな寺院に車輪がついたようなデザインである。そしてなんだかフワフワと浮いているような走り方だ。

車で五分ほどの場所にそのホテルはあった。従業員総出で大歓迎してくれるがどことなく覇気がない。動きも緩慢である。だが特段に観る者をいらだたせることもなく、のんびりした時間を逆に感じさせる。


「いいところね」

愛人の吾郷(ごごう)がうっとりする。「ああ、なんだかんだ言ってあるところにはあるじゃねえか」

組長も満足そうである。



「荷物はこちらでお預かりします」

従業員がスーツケースや旅行鞄を台車に載せるよう促す。長旅の疲れをぶつけるようにドサドサ投げ入れる。客たちは日ごろから鬱憤が溜まっているようだ。

次にカウンターでチェックインする。旅行サイトから予約した場合は簡単な身元確認で済むが当該旅館ではほぼ顔パスというわけにもいかず記帳を求められた。

「めんどくせえな。アプリとかバーコードで出来ねえのかよ」

「申し訳ございません。当館は予約サイトで大勢のお客様を募るのではなく一人一人をおもてなししておりますので」

支配人が申し訳なさそうにする。人数限定の知る人ぞ知る宿だそうだ。

「予約を取るのが大変なのか」

矢丼がたずねると「いいえ、そういうことではございません。お部屋はいつでもご用意できます。自然とこちらに足を運ばれる方には快適なお宿となっております」

「リピーターが多いのか?」

すると支配人は少し考えた。「そうですね。リピーターと言えばリピーターというか…何度も来られる方は珍しいのですが、一部の方には『愛されて』いるようです」

このように何か含んだ言い方をした。

矢丼は宿帳に知り合いの名前をみつけた。同じページだ。三日先にある高齢者が宿泊する。引退後に重病を患って寝たきりだというが。

「おい、これはどういう事だ」

支配人を問いただすと個人情報にはお答えしかねると断った。「ただ、そのようなお客様にもご利用いただけます」と付け加える。

「万病に効くってか」

組長は首を傾げた。人工透析患者の湯治など聞いたことがない。



「財布や携帯も置いて行けというのか」

フロントで若い衆が揉めている。すると支配人が割って入った。

「まず足湯と温泉を楽しんでいただいてからご夕食の用意をいたします。その間に部屋の準備をさせていただきますので」

女性陣が足湯というキーワードに飛びついた。そしてセキュリティーだの何だのと言う野暮な言い分は勢いに呑まれてしまった。



「ここで靴を脱げばいいんだな」

矢丼は靴下を脱ぎ棄てるとつま先を湯につけた。とっぷりとした感触の次にちょうどよい湯加減が全身に染みわたる。なんだろう、このポカポカと体の内部から服を照らすようなぬくもりは。

まるで着衣入浴している気分だ。


脱衣場は一風変わっていた。ロッカーではなく木の枝に着物をひっかける珍しい方式だ。ツリーの一本一本がプライベートな個室に生えており、奥に共同浴場に続く扉がある。

矢丼の上着は重かった。ずしりと枝がしなう。まるでボーリングボールが入っているようだ。ポケットの中身は全部預けたというのに。


身体を洗っていると、これでもか!というくらい垢が出た。備え付けのソープは強力で越すっても擦っても黒い汚れが出る。特に腹の部分はタオルが変色するほどだ。

「親分、腹黒いですね」

舎弟のひとりがため口をきいた。目に入れても痛くないほど可愛がっているメンバーのひとりなので無礼は許す。

しかし、彼はハタと気づいた。「黒い垢…? あっ」

そして一目散に脱衣場へ駆け出した。何やらワアワアわめいている。そしてそのまま帰ってこなかった。


「戸田の奴、遅いですね」

透き通るような絹の浴衣に着替えている途中で幹部が思い出したようにいう。

「そういえば、そんな奴がいたな」

さっぱりした組長は部下の行方など気にせずサバサバした態度で浴室を出た。


大広間での食事は豪勢で予想を超えるスケールだ。まず膳の中央にすき焼き鍋がデンと置かれ、刺身や天ぷらの盛り合わせが並ぶ。あつあつの御飯に味噌汁があう。

そして食べきれない量の総菜に小鉢がいろいろ。チキンナゲットにサクサク生地のコロッケもある。デザートも豊富だ。


「喰った喰った」

矢丼が腹を抱えていると向かいの女性が「ごちそうさま」と手を合わせた。そして血相を変えた。

「うそ…そんな…おばあちゃん?」

そして立ち上がると鉄砲玉のように飛び出していった。

「ん? 何を見たんだ」

周りの男たちは度肝をぬかれたが、すぐに目の前の料理に興味を移した。河豚のフルコースが運ばれてきた。

「こりゃ肝だぜ。それも喰い放題って天国かよ」

食通が声をあげる。

「安心してお召し上がりください」

運んできたシェフがほほ笑む。

「死んじゃう」

若い女性たちが躊躇していると「死にはしません。当館では安全配慮に万全をつくしております」

料理人が太鼓判を押したため各テーブルは肝が舞い散る争奪戦となった。


そして、また組員の一人が深刻な面持ちで消えていった。

「なんだよ、あいつ。アレルギーでもあるのか?」

矢丼がグラスを傾けていると吾郷が「どうせ肝でも冷やしたんでしょ」と笑った。


すっかり出来上がった一行が宴席を後にしたのは午後十時。

ラストオーダーですと言われて呑み足らない人々はナイトラウンジに繰り出した。夜の街は条例で規制されている。深夜でも酒を出す店はホテル内に一軒だけだ。

千鳥足でエレベーターに転がり込む。とりあえず最上階を押すと四方の壁がガラス張りになった。エレベーターガールが「展望台に参りまぁす」と扉を閉めた。

ぐんぐんと加速するにつれ砂糖をこぼしたような温泉街の灯りが遠ざかる。周囲は人里離れた山岳地帯らしく何もない。

真っ暗だ。

山影が小さくなると銀河のような夜景が広がった。

「綺麗」

「あそこに行ってみたい」

へばりつくように眺めている。どうやら大きな河口か内海のようだ。夜だというのに船の灯りが見える。

「あいにくあちらには渡れません。その代わり皆さんを素敵な場所へご案内します」

エレベーターガールの眼光が輝いた。

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