因業の塔

水原麻以

こんな時に旅に行きたい、切実な理由

「おい!どうしてくれるんだ!!」


開口一番、バアンと拳が唸った。窓口担当者が右頬を腫らしている。その他、数名が大の字に伸びている。

指定暴力団矢丼組の七代目親分だ。暴対法うんぬんを金権と政治力で蹴散らす大物で国会議員に有力がコネがある。

このままでは旅行代理店許可の登録取り消しで済まない。裏から警察に手を回されて反社会的勢力に対する利益供与を摘発される。矢丼組長にとって世界は釈迦の掌よりも広い。

このように司法も行政も右から左へ都合よく転がせるのだ。


何とかして怒りを鎮めないと殺されてしまう。


例のウイルスに罹患するよりも死亡率が高い。なんと一万%だ。つまり従業員全員が大阪湾に鎮められてしまう。


組長の怒りはもっともだ。娘婿が新婚旅行と披露宴を兼ねて年末年始の国内旅行を計画していた。

感染拡大は承知の上だ。傘下のドラッグストアチェーン(→丼)のPRも兼ねて万全の体制を整えた。自慢のPCR検査キットは売るほど持っていく。いや、売る気満々だ。



突然のGoToトラベル全国停止。予想を大きく外れた患者数急増、医療崩壊の瀬戸際で政府は苦渋の決断を下した。

その責任分担は旅行シーズンを直撃し、経営者の涙腺が決壊しかかっている。


「はい、どうにか致しますです今すぐに」

部下をことごとく殴り倒されたので営業所長がじきじきに平身低頭した。


「どうにかなる? なるって状況じゃねえだろ」

組長はすごんだ。すでに県境をまたいだ移動に自粛要請が出され公共交通機関の運休も決まっている。タクシーやレンタカー業界も協力を表明した。移動手段は自動車か最悪の場合、徒歩に限られる。

「け、県内ならまだ旅行商品がございまして…」

震える手でパンフレットを渡す。矢丼はひったくった。そして無言でパラパラとめくる。

「営業所長さんよ…」

「はうっつ!」

呼ばれて呼吸が停まる。

「俺も鬼じゃねえからよ。無い袖振れってガキチンピラみたいな無茶ぶりはせんよ」

ゆっくりと子供に教えるようにさとす。


「は、はぁ…」

営業所長はすっかり肝を冷やしている。腰がぬけてヘナヘナとソファーに座り込む。


「県内でも別に構わねえ。贅沢はいわん。住めば都というしな。これまでも今後も営業部長さんとは持ちつ持たれつの関係だ。だがな…」

黙って高級スーツの内ポケットから純金ボディのスマホを取り出す。


”おじいちゃん、りょこーのプレゼントありがとー”

”わぁい。おんせん、おんシェン♪”


よろこび勇んで駆け回る子供たちの動画が目に染みる。


「ううっ…」

目尻をきらめかせたのは給湯室に潜んでいた受付嬢だ。そしてバタバタとマガジンラックを漁った。色鮮やかなパンフレット。定番のハワイから南極まで今はとても遠くなった世界へいざなっている。

「あっ、君、やめなさい」

所長の制止を振り切って組長に数冊を渡した。


「こ、これは?」

矢丼は目を見張った。そして、ふむふむと読みふけったあと「いいじゃねか!これ頼むわ」と注文した。


「し、しかしこれは」

所長が青ざめる。

「ガタガタ抜かすんじゃねえ!とっとと案内しろ」

「いいんですか?本当に」

「構うか。とっとと準備しろ」

押し問答の末に組長は切符を手にした。


【In Go to Travel】へようこそ。

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